カテゴリ:城(甲信越・東海)
東一之門からさらに奥へ進む。
細道の正面は変な感じで行き止まりになっている。 左手を見ると、工事現場は途切れて天守が大きく現れる。おお~! でもその前に、正面になにやら気になるものが・・・あ、清正石だ。 石垣の中に大きめの石があって、清正が石曳きの音頭をとったと されているものだが、ここの枡形は清正の担当ではないことが 当時の資料で明らかになっているらしい。 みんな天守の方に吸い込まれてしまって、すぐ近くにあるのに こちらまで来る人はほとんどいない。 石垣が間近に見られるので、思いっきり接近して早速刻印探し~ うん、あるある。 ここは東北隅櫓跡でもあるのだが、石垣はそう高くはないので 一人ぽつんと舐めまわすように石垣を見つめていたら、 なんとなく後ろに人の気配。 振り返ってみると、真後ろの柵にもたれかかって 警備のお兄ちゃんがこちらを眺めていた。 えっ、これって・・・ 何の変哲もない石垣を食い入るように見つめる不審者扱い!? 急に振り返ったので思いっきり目が合ってしまい、 お兄ちゃんはさりげなく向こうへ行ったが、 マークされたかと一人ドキドキしてしまった。 しかし、そんなことに負けてはいられない。 お兄ちゃんが寄りかかっていたのは工事現場の柵だったけど、 その奥には門があって通行止めになっていた。 解説板もあるけど、柵のはるか向こうで遠くて肉眼では見えないよ~。 解説板くらい手前に移動させておいてよ~。 とりあえず思いっきり手を伸ばして解説をパチリ。 良かった、なんとか読める・・・ 【旧二之丸東二之門(重要文化財) この門は東鉄門といわれ、もとは二之丸の東二之門(外門)として枡形を 形成していたが、昭和36年、二之丸の一角に愛知県体育館が建設されるにあたって、 一時解体し保管していた。 昭和47年、ここ本丸東二之門跡へ移築した。形式は高麗門で、本瓦葺き、軒回りは 漆喰塗り籠めとし、柱・冠木・扉などには帯鉄を打ちつけている。】 (現地解説板より) ふむむ。 表二之門に比べるとかなり地味な門だが、妙な地形だと最初に思ったのは、 ここが虎口だからなのか。 それでこの手前に東一之門の解説があるってことは、 つまり枡形虎口を挟んで二之門・一之門と立て続けに門があったってことなのね。 つか、二つの城門に挟まれた方形の空間を枡形虎口というのだから当たり前か。 ああ難しい。 パンフレットに古絵図も載せてくれたらわかりやすいのに。 門が二つあって東北隅櫓があって、さらに多門櫓に取り囲まれている、とね・・・ なるほど~。 一つの虎口を攻めようとすると別の虎口から出撃して撃退できるようになっている、 とあったけど、ここと表門の虎口が本丸御殿脇の細道でつながっている からって意味なのか~。 寄せ手の立場に立ってみれば、次から次へとダンジョンが待ち構えていて、 攻略するのは大変そうだな~。 二条城でも思ったけど、ここも相当実践型の城だな。 堀も深いし。 いや、そもそも城の存在価値とかを考えれば実践型とゆーのは 当たり前の事なんだけど、戦国時代に興味を持つまでは、 城のなんたるかを知らず、ただなんとなく行ってただけだったからさ(反省)。 たとえ完全な形で残っていなかったとしても、 その構造物がどういう機能を果たしていたのかとか考えながら見て回るのは、 本当に楽しいと感じるようになった。 時計を見ると10:30を回ったところ。 天守へ行く前に、やはり腹ごしらえが必要だろうと考え、 一旦きしめん亭へ戻ることにする。 表二之門を裏から見ると、銃眼が見えた。 やっぱり戦闘用の城だとここでも思った(だから当たり前だって・・・)。 シンプルなきしめんでランチを済ませ、いよいよ天守へ。 も~、さらに人が増えてる~。 仕方ないな・・・(←人ごみキライ)。 天守の入口が最初わからなくて、大天守の石垣を眺めながら ぐるりと右方向へ進んで行ったら、不明門へ出てしまった。 あ、じゃあ、人が沢山登っていったアレが入口なわけね・・・ ところでここにも沢山刻印がある。 大阪城みたいな巨岩はないけど、 近くで石垣を見られるのが名古屋城のいいところかな。 名古屋城は尾張徳川17代の居城。 昭和まで残っている建物もあったが、1945年名古屋大空襲により天守と御殿が焼失。 ウィキペディアには無残に燃え上がる天守の姿が・・・ あああ、胸がつぶれそう・・・ 現在の天守は復元されたもので、中は博物館になっている。 さて、天守に入るとまずは地階で金シャチがお出迎え。 奥には「黄金水の井戸」の復元模型がある。 これは飲用の井戸で、掘った当初は濁っていたが、 清正が祈願し水底に黄金を敷いたところ、水が澄んだという伝説があるらしい。 え~と、全部で7階もあるのか・・・ 上から下りてくるかな、ってんでまずは7階の展望台へ。 売店もあったけど、目ぼしいものは見当たらず、さらっと見ておしまい。 6階には展示室はなし。 5階は撮影用の金シャチが置いてあり、石引き体験コーナー、 あと名古屋城の歴史のコーナーがある。 4階は石垣コーナーと武具類などの展示。火縄銃がすんげ~長かった。 米沢でも火縄銃は沢山見たけど、こんなに長いのあったかなあ? 立ちっぱなしが苦手なので、椅子を見つけては座り、 ちょこちょこ休みながら体力の温存に努める。 どこのババアだよ・・・ あ、私ジジイだったわ(笑)。 3階は楽しいスペース。 まずは再現された城下町のにぎわいが迎えてくれる。 そのほか、本丸御殿の模型とか藩主の間とかいろいろある。 あと「祝い膳」の再現も展示されている。これがすごかった。 この膳に、外で最初に見た榧の木の実を盛ったのか~。 信長様の「安土御献立」ってもっとすごかったのかな。 そういえば、安土御献立を弁当にしたのがJRタカシマヤにあるらしいけど、 最終日ゲットできるかな~。 そして1階。ここが一番気に入った。 本丸御殿障壁画の復元模写・戦災焼失前の古い写真・ 「木子コレクション」なる刀剣・刀装具の展示など 上階の展示とは全く趣が異なっているが、なんといっても模型がすごい。 城内全体の模型がどーんとあって、総構えってのがよくわかるし、 とにかく圧巻!! 城の構造もホントに複雑だし、三の丸には成瀬隼人正なんて 昔ドラマで覚えた人の屋敷があったりして、 ぐるぐる色んな角度から、それこそ舐めまわすように見たけど、 ホント見あきない。 これ、欲しいな~。 そしてもう一つ、本丸御殿の縮尺20分の1の模型。 これもすごかった。 見事に造られているのはもちろんのこと、 前回京都で二条城を見たあとだけに、御殿の造りがすごくよくわかる。 これも見あきない。 外人はパチパチ写真を撮ってたけど、どうもこういう所で撮りなれないせいか、 「フラッシュ撮影禁止」とのみあるから撮ってもよさそうなのに撮れなかった。 だから、館内の写真は1枚もないんでちゅ。 その奥にはなにやら3Dシアターの看板が。 次の上映まで少し間があるので、もっかい名古屋城の模型を見てこよう。 またガラスにへばりつくようにぐるぐる回って、 そろそろ時間になったので3Dシアターへ。 体力もかなりヤバイところまで来ているので、 ましゃか立ち見じゃないだろーな・・・と不安だったけど、早めに通してくれた。 メガネを受け取って中へ。 良かった、椅子がある ここは尾張7代藩主・宗春公がナビゲーターを務め、 誕生から炎上、再建にいたる名古屋城の歴史を案内してくれる。 本丸御殿再建中とあって、続きは工事完了後に自分の目で見てくれい、と いいところで終わってしまうのが難点かな。 ふ~、なんとか見終わった・・・。疲れたな・・・ 天守を出て、さっき見た不明門へ向かう。 【多門塀の下をくぐる埋門で、本丸御殿の大奥へ通ずる秘門であり、常に鍵が 厳重に施され、別名を「あかずの門」といった。塀は外部の軒桁を忍返しにした 「剣塀」である。 昭和20年3月14日、空襲で天守閣などとともに焼失、昭和52年3月、原形の 通りに再建した。】 (現地解説板より) 埋門?二の丸にもそんなのあったよな。 本丸御殿の大奥? よくわからんが、3つある門のうち、表門と東門を見てきたから、ここが3つ目の門か。 この門を出ると御深井丸。 ネーミングからして、山里丸みたいなもんかな。 かつては大筒蔵・手筒蔵・磨蔵などの武器弾薬庫があり、 東のはずれには塩蔵があったらしい。 不明門をくぐって橋を渡ると大天守を裏から見る形になるわけだが、 ここの石垣もホントに立派。 出た正面には天守礎石がある。 【ここにある石は、旧国宝名古屋城天守閣の基礎土台石である。 昭和34年、天守閣再建のとき、ここへ移し再現したものである。】 (現地解説板より) ん?ここへ移し再現? 戦災で焼失って、どこまで焼失したんだろう? 天守は木造だから焼け落ちるけど、石垣って崩れるのかな~って 思ってはいたんだけど、 そのまま上に建物を再現できるほどは綺麗に残らなかったってこと? 大坂城みたいに、燃えて赤くなってる箇所ってないよなあ・・・ とは思ったんだけどね。1回解体して元の礎石をここに移して、組み直したのか。 米軍はあくまで誤爆だったとしているらしいけど、 何でこんな立派なものを燃やすかな~。 くそっ!くそっ!!くっそおお~!!! 天守礎石の奥には、何やら城とは不釣り合いな物体が・・・ え~と、 【石棺式石室 島根県松江市山代町にあった団原古墳の石室で、本来は床石があって、 手前に羨道(石室への通路)を備えていた。 古墳時代後期のもので出雲地方独特の横穴式石室である。】 (現地解説板より) はあ・・・。何でそげなものがここに? 道に戻って天守を眺めながら進むとまた解説が。 【石垣の勾配 名古屋城天守閣の石垣積みは、上部で外側にそりだした「扇勾配」の技法が 取り入れられている。 これは加藤清正が担当して築いたので、とくに「清正流三日月石垣」と いわれている。この技法は、石垣を内面に湾曲させ石の重みと内側の土圧による 力を分散させ、はらみを避けるためである。】 (現地解説板より) 確かにここも本当に見事だし、 清正が築城の名手として名を馳せているのは有名だけど、 普請を命じられた外様大名の中でやたら清正がクローズアップ されているように感じるのは私だけ? やはり地元の支持はすごいの~。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017年01月31日 18時19分41秒
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