赤間ヶ関編(48) 大里宿~最終回
この看板には、大里が浜辺だった頃の写真も載ってた。 おお、これが数々の歴史を見つめてきた、大里の浜かあ~。さてと、これで門司で予定してた所はすべて終了。せっかくだから、大里宿に残る石碑を見てから帰ろうかな。大里宿は、国道から内陸側に一本入った細い道。西生寺から小倉の方まで続く門司往還上にある宿場町。古くは「柳」とか「柳ヶ浦」と呼ばれていたが、安徳天皇の仮御所ができてから内裏=大里となった。この辺りは、赤間ヶ関の中でも早鞆の瀬戸に次いで本州と接近しており、かつ比較的流れも緩やかなことから、渡海に利用された浜でもあった。江戸時代に入り、小笠原家が寛永9年(1632)に小倉藩主として転封。街道の整備が進められ、やがて参勤交代の制度が始まると寛永20年(1643)頃から宿場が整備された。当時の歌に いやなお客は鍋島薩摩 いつも夜泊り七ツ立ちとあり、夜遅く着いて朝は早立ちして経費削減に努めたらしい。まあ、今で言う「お泊まり」じゃなくて、「御休憩」みたいなカンジ?(笑)久留米藩は領内に良港がないため、黒田藩に若松の港を借りて参勤交代用の船を繋ぎ止めていたそうだが、寛永20年に可哀想に即刻立退きを命じられちゃったので、大里の浜を小倉藩から借用して船屋敷を設置したという。色々あって、面白いね慶応2年(1866)、長州軍の上陸により大里の宿場は大火災となり焼失・・・という歴史を持つ。宿場町の真ん中ら辺から入って、一旦西生寺近くまで戻りつつ石碑を探す。 【↑この地に御高札と南郡屋が建っていた。御高札は幕府及藩の通達を掲示した。 隣接の南郡屋は藩役人が各村庄屋へ通達と打ち合わせを行ったところ】 【↑人馬継所は宿場の主要施設であって継立の人馬を常備してゐた。旅人は料金を 支払って人馬駕籠をたのみ、次の宿まで旅行した。】 途中、「あ、あれ見落とした!」とかあって、行きつ戻りつしてたので、疲れたから彦島を諦めたにもかかわらず、結局大里宿を歩きまわる。石碑探しも一段落してから、駅方面の宿場の出口へ向かう。 一般的には素敵に見えるであろうこんな建物があっても、私の心はその下にあるこっちの方にときめく(笑)。 フラフラになりながら歩いてきた道を、最後にもう一度振り返る。 約200年もの間、この通りでどれだけのドラマがあったことだろう・・・往時の賑わいを眼前に想像しながら、満足して駅へ。門司駅周辺は再開発中みたいだけど、門司港駅と比べてずいぶんひっそりしてるのが印象的だった。観光の中心は、門司港駅周辺だけなのか~。門司駅から電車で門司港駅まで戻って、お船で唐戸へ帰る。今回は天候に恵まれたので、赤間の海はいつも青かった。 ああ、この船に乗るのもこれが最後だ・・・使ってみると門司港まですぐだし、便利だったな~。ホテルの部屋は海側なので、唐戸桟橋がすぐ下に見える。部屋に戻ってベランダから外を見てたら、今回乗ったのとは外観が全く違う船が泊まってた。 あ~、これが船島へ行く船かあ・・・今年はいわゆる巌流島の対決から400年。色々イベントも用意されてるそうな。夜の唐戸桟橋はこんな感じになる。 一番上に見える光のラインが、対岸の門司の夜景。この日の歩数は17,256歩。疲れてた割には、まあまあ歩いたよな。4日目('12/1/10) 晴れ 6,748歩最終日は帰るだけ。朝の遅い下関でバス待ちしてる間、カラーのふぐのふたを探す。引接寺の方まで行けば、ひとつあったハズだけど、そこまでの時間はないので付近をウロウロ。1コあるにはあったんだけど、目がつぶれちゃってたよ~ 空港へ向かうバスの中でぼんやりシートを眺めてたら、こんなものがプリントされてた。 フグだ!!他にも、源平の船と赤間神宮、それから関門橋がプリントされてる。これって立派な「現代版下関名所図絵」だよな~とか思いながらニヤニヤ。山口宇部空港にあったポスターを見てたら、 【天然のフグだからおいしいと、評判です。 山口県周南市のすくも島でとれる天然フグは、養殖ものとはちょっと違います。 なにしろ天然のフグは自然のものを食べているので虫歯になりにくく、丈夫な歯を 持っていると言われています。そんな小話を思いつつ、天然フグならではの おいしさを、じっくり堪能してみてください。】なんてのを見つけた。フグも虫歯になるんだ。 あ~、今回の旅もおしまい・・・楽しかったなあ、赤間!!ここまで長々とあれこれ書いてきましたが、これは赤間の海を取り巻く歴史のほんの一部。皆様も、機会があったらぜひ!ぜひ赤間ヶ関へ、おいでませにほんブログ村