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戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年03月15日
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カテゴリ:旅日記(九州)
あ~やれやれ、やっと西生寺でのノルマ達成した・・・
と安堵感に包まれて山門を出ると、石碑があった。


      西生寺・判行寺跡碑


 【寛永16年(1639)、徳川幕府による宗門改めの政策によりキリスト教は
  禁制となり、それに伴い踏絵が実施された。
  豊前国企救郡における踏絵は、毎年3月3日頃、西生寺にて行われ幕末まで続いた。
  明治の初め頃まで此処に『判行寺』と刻した石碑が建てられていた。】
  (碑文より)


踏絵って、毎年やるものだったんだ・・・。


西生寺を出て、国道199号線へ出る。
たぶん、この辺り一帯が「大里の浜」と呼ばれる場所なんだと思うので。


     大里の浜2


現在はこんな風にすべて埋め立てられていて、浜辺はない。
少し歩いて、駐車場に座れる所を見つけたので
休憩がてら海を眺めて萌え~(笑)。


     大里から彦島


対岸は彦島。
知盛さんが城を築き、平家が陣取ったと言われるところ。

写ってないけど、右手の奥には船島(巌流島)がある。
写ってないけど、左手の海をずっと行けば、
響灘を経て対馬、さらに朝鮮・中国へと続く。

平家が船を浮かべ、大内氏はここから繁栄を築き上げ、
龍馬が花火をぶっ放した赤間ヶ関。

そして私が今いるところは、明石与次兵衛さんが切腹し、
福間元明が討ち死にした場所。

狙った訳じゃないけど、今回の旅の集大成の萌え~にふさわしい場所だった。
まあ、船島へは行けなかったけど。


・・・しかし、幸せな妄想の時は長くは続かない。
海風が冷たくて(笑)。

近くにはカモメが数羽飛んでたけど、普段目にする大きい鳥といえば
カラスぐらい。
やけにカモメがずんぐりむっくりに見える。
何であんなに太ってて、空を飛べるんだろう?


少し歩くと、なにやら解説板があった。


        大里宿絵図2


ほう、大里宿の絵図だ音符

あ・・・「安徳天皇 柳の御所 御上陸地」ってのも書き込んである。

そのすぐそばには、

 
     安徳天皇上陸の地解説・大里宿地図3


その向かいの海には、


     安徳天皇上陸の地解説・大里宿地図5


へえええ~っ、象!!

ここから乗っていったのかな~、それとも、門司港の方まで歩いてったのかな~。
いずれにしても、この辺を象さんが歩いたのだ。
門司の人達は驚いただろうな(笑)。


帰ってからこの象さんの事をちょっと調べてみた。
実は象の来日はこの時が初めてじゃないそうで、
 
 初来日・・・応永15年(1408)足利義持の時代。
       その後、幕府は朝鮮国王に贈呈した。
 2回目・・・天正3(1575)年、明の船が博多に象と虎を持ち込み、
       大友宗麟に贈った。
 3回目・・・慶長2(1597)年、ルソン総督が豊臣秀吉に送る。
 4回目・・・慶長7(1602)年、ベトナムから虎・孔雀とともに来日。
        徳川家康に献上される。

そして、5度目が、享保13(1728)年。


当時国際貿易の窓口だった長崎の代官を務めていた高木家では、
珍しい鳥獣が舶来するとそのたびに舶来生物のカタログを作成し、

「ちわ~、こんなん入りましたけど」

と、三河屋さんよろしく、江戸に送って御用伺いをしていたそうな。

幕府はそのカタログを吟味して、欲しいものを取り寄せていたという。
それまでに来日した象は献上品だったが、
5回目は吉宗自らが注文したみたい。


お取り寄せされた象は、清の商人によってベトナムからオス・メスが
1728年6月に長崎港に到着。しかし女の子ちゃんは旅の苦労がたたってか、
長崎で死亡。

残されたオスの象は翌年3月、長崎を出発。
途中の京では、4月に中御門天皇・霊元上皇に拝謁している。

面白い事に、

「無位無官の輩を主上に会わせるんどすか!?」

って話になり、急遽御所内で「広南従四位白象」の官位を与えて参内させた。
秀吉もまっつぁおのスピード出世。

拝謁した象は前足を折って頭を下げる仕草をしたり、
まんじゅうを食べて水まで飲んで帝を大喜びさせる。
・・・やるな、おぬし。

初めて象を見て感動した帝は、

  時しあれは 人の国なるけたものも けふ九重に みるがうれしさ黄ハート

とのお歌を遺したと。
「けたもの(獣)」なんて言葉、和歌に入れていいんだ・・・(笑)。


さらに東上して江戸を目指すが、5月には箱根で体調不良を起こす。
しばし休養した後、江戸にて吉宗に拝謁。浜御殿で飼われる。
江戸で書かれた象に関する書物『象志』によれば、この時7歳。

ここからがひどい話で、翌年には幕府から「御用済み」を言い渡される。
早っっ!!
しかし買い手がつかず、結局そのまま浜御殿で13年。
当然の事ながら飼育費もバカにならない。倹約のさ中だし。


その後、1741年に多摩郡中野村(現在の東京都中野区)の百姓・源助に
お下げ渡しとなり、本郷村成願寺裏手に作った象小屋で見世物に・・・
この本郷村って、やっぱり赤い御門の大学のある、あの本郷だよね?

源助は象の糞を原料にした丸薬「象洞」を作り、
はしかに効くとの評判で、信濃や越後まで売られてったらしい。

戦国時代には、糞尿を使った荒療治が色々あるけど、
この時代まで糞はバリバリ現役だったのか・・・

さて源助の元に移った翌年、ストレスが溜まったのか大暴れして
騒動になる。
その12月、還らぬ象となる。
死因は餓死。享年21歳。


死後に皮は幕府に納められ、頭の骨と2本の牙と鼻の皮は源助がもらい受けたが、
これすら源助は見世物にしたらしい。

その後は中野・宝仙寺の和尚が買い取って寺宝として保存されていたが、
先の戦争で寺が焼け、現在では炭化した牙が1本残っている、とされている。
この牙は一般公開はされていません。


ああ、可哀想な象君。
それまでに来日した象さん達も、たぶん似たような運命を辿ったんでしょうね。

戦国の頃はプチ氷河期だったなんて説もあるから、
南の国からやってきた象さんには、日本の寒さはこたえたに違いない。
源助め・・・


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最終更新日  2013年10月18日 22時52分00秒
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