2076837 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

戦国ジジイ・りりのブログ

戦国ジジイ・りりのブログ

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2012年04月22日
XML
カテゴリ:城(中国)
少し上がると、石垣が出てくる。


        備中松山城2


        備中松山城・中太鼓の丸石垣



う~ん、松山ジョーに来たってカンジぃ~音符

上の写真のグレーのものは看板だったので、回り込んで見に行った。
そしたら、いきなり解説が始まった。

おお、看板がしゃべったあ~!!

面白いな、ここ・・・


         備中松山城・中太鼓の丸解説(拡大)


 【中太鼓の丸跡

  古文書や絵図などの記録によっては「上太鼓の丸」と記されたものもあり、
  小松山から南へ延びる緩やかな尾根上にあたる。眼下に見える前山山頂の
  「下太鼓の丸」と「大手門跡」のほぼ中間で、戦略上の重要な拠点でもある。

  「曲輪」と呼ばれる2段の平坦面からなり、その側面には強固な石積みが築かれている。
  上段の曲輪の南端には、「中太鼓櫓」と呼ばれる櫓が建っていたことが記録や絵図に
  残っており、現在も跡をとどめる。

  城主の登城の際や有事の際に山麓の後根小屋と天守とを太鼓の音などで連絡する
  中継所のひとつで、防備上の拠点であると同時に通信網の要衝。


  
  下太鼓の丸跡(前山山頂)

  眼下に見える臥牛山の支峰「前山」山頂にあり、山麓の御根小屋と天守とのほぼ
  中間地点にあたる。西南に延びる尾根に沿って、4つの曲輪(4段の平坦面)から
  構成されている。

  自然の岩盤を巧みに利用し、部分的に石積みを施して築かれた強固な出丸。
  北方以外の三方向に視界が開け、中でも南方向は市街を一望することができる。
  中太鼓の丸とともに防禦あるいは城下俯瞰の要衝であると同時に
  太鼓の音などを中継する通信所のひとつ。】
  (現地解説板より)


上から2枚目の写真と、次の写真が中太鼓の丸上段の石垣。


         備中松山城・中太鼓の丸石垣3


いっきなりコレだもんねえ~。
先が楽しみだよな~上向き矢印


看板のある下段には前山方面にベンチがあって、確か親切に
吸い殻入れがあったような・・・
で、御厚意に甘えて、展望を楽しみながら一服したんじゃないかな
(↑よく覚えていない)

普通、こーゆーとこってたき火・タバコの類は禁止だと思うんだけどね。


先程のしゃべる看板は、案外に感度がいいらしくて、
ベンチから立ってちょっと近づくとすぐにしゃべり始める。
ので、4回くらい同じ事しゃべらせた気がする・・・(笑)。

軽く休憩してから上段へ。


        備中松山城・中太鼓の丸石垣4


あ・・・草の中に見える石段の上が、解説にあった中太鼓櫓跡かな?

上がってみると、ちょっと樹木に遮られてた下段よりも
いくらか見晴らしが良かった。


        備中松山城・中太鼓の丸櫓付近から高梁市内



高梁川沿いに山間部をず~っと北に行くと、伯耆・・・

ここは山陰と山陽を結ぶ伯備往来のほぼ中央に位置し、
東西の主要街道も交差する交通の要衝であったという。

しかし、この「伯備往来」ってのが、ちょっとネットで調べたくらいじゃ
具体的なことが全然わからないんだけど。
違う名前で呼ばれてたのかな。

まあ、「伯」と「備」だから、伯耆と前・中・後の備国のどれかを
つなぐんだよな~って大ざっぱな想像に留めておくしかないな。


そういえば、昔出雲に行った時、帰りは岡山で新幹線に乗り換えたんだっけか。
覚えてないし、当時はどこを通るとかって事に興味もなかったけど、
たぶんここを通ってきたんだ。

中国地方って、大内さんちを好きになるまでは全然縁がなかったから
土地勘もないし、今広域の地図を見てても山ばっかりで
山陰と山陽ってどこでつなぎを取るんだ?みたいな感覚なんだけど、
知らないうちにこの歴史ある道を通ってたんだ~(電車でだけど)。


あ、それで交通の要衝。

どうも昔って、松山城が備中制覇のステータスだったみたいで、
松山城に入ると「備中の覇者となった」的に表現されることが多い。
庄氏しかり、三村氏しかり。

戦国時代は、その時代性から城主が変わるってのもわかるんだけど、
江戸期を通じても実に目まぐるしく城主が変わる。
まあ、江戸時代もところによっては転封の嵐だったからね・・・

どのくらい変わったかって?


  1240~1330 秋庭氏
  1331~1355 高橋氏
  1355~1362 高氏
  1362~1509 秋庭氏
  1509~1533 上野氏
  1533~1571 庄氏
  1571~1575 三村氏
  1575~1600 天野・桂氏(城代)
  1600~1617 小堀氏(国奉行)
  1617~1641 池田氏 
  1641~1642 水野氏(在番)
  1642~1693 水谷氏
  1694~1695 浅野氏(在番)
  1695~1711 安藤氏
  1711~1744 石川氏
  1744~1868 板倉氏
  1868~1869 池田氏
  1869~1871 板倉氏
  1873      廃城 


最初の施工主の秋庭(秋葉)さんは、源家の御家人・三浦一族の人。
大松山に居城を構え、簡単な砦くらいのものだったらしい。

その後入った高橋さんは備後三好氏の人で、城域を小松山まで拡張し、
城の名前も高梁城から松山城へ変えたといわれている。


築城から廃城まで実に600年もの歴史を有する城だけど、
ま、私は戦国ジジイですので、ここで書くのは上野氏~三村氏までねうっしっし
 
松山城主が庄氏から三村氏に遷ったあたりについては、
「撫川城(2)備中国人物語1」に簡単に書いてますので、
そちらを読んでね。
 

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2013年07月06日 15時52分23秒
[城(中国)] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

りりじい

りりじい

カレンダー

カテゴリ

コメント新着

王島将春@ Re:浅草&寛永寺法要編(8) 東国の成熟(01/08) はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
よー子@ 墓参り2014(2) 慈眼寺~芥川龍之介と小林平八郎の墓(08/02) 前略 初めてお便りします。 質問ですが、…
伊藤友己@ Re:上野第三編(12) 寛永寺105/清水観音堂~越智松平の灯篭(06/20) 越智松平家が気になって詳しく拝見しまし…

サイド自由欄

よみがえる江戸城 [ 平井聖 ]
価格:2916円(税込、送料無料)







PVアクセスランキング にほんブログ村

お気に入りブログ

ほげほげと えびねっこさん

© Rakuten Group, Inc.