カテゴリ:城(中国)
市迫城・殿奥城<広島県福山市芦田町大字下有地>
(住所をクリックするとMapionにリンクします) ※「大谷城(3)」の続きです。 前回は文字数パツパツで書ききれませんでしたが、 「陰徳太平記」の宮城合戦についてちょっと補足。 「陰徳太平記」では武田が出奔した後に元就の勢いが増し、 天文3年2月上旬に吉田を出発したとある。 「陰徳太平記」のベースになった「陰徳記」の方では、 武田光和が天文3年3月3日に死去した後に元就が勢力を強め 宮氏の城を攻めに天文3年2月上旬に吉田を出発したとしている。 が、「新裁軍記」ではこの合戦についての感状がないことから どうも疑わしいとし、続いて 「天文3年3月3日以降に元就公が勢いに乗って 備後に向かった流れのハズなのに、 出陣が天文3年2月上旬ておかしくね!?」 と鋭いツッコミを入れた上で、とどめに 「そもそも武田光和が死んだのは天文3年3月3日じゃなくて、 天文9年6月9日だしね」 とバッサリ切っている。 なるほどね。 こういうことを踏まえた上で考えなきゃならないんだから、 歴史の勉強ってのは実に大変だ・・・ さて、現実に戻って次に進みます。 大谷城東麓のコンクリ製空堀にかかる心細い橋から東側を眺めたところ↓。 ここから少し北に行くとその先は開けた土地になるけど、 この辺りは標高は低いとはいえ山に囲まれた地域。 大谷城へ登れるような場所を見つけられなかったのは残念だけど、 今ではこんなのどかな山里も、かつては様々な争奪戦が 繰り広げられたのか~と、誰もいない静かな山麓で少し浸ってみる。 しかし、いつまでもぼんやりしてる訳にもいかない。 今日は忙しいのだ 来た道をおとなしく戻っていくと、民家のあるあたりで 誰か向こうから歩いてきた。 近所に住む人かと思いきや、タクシーのおじちゃんだった。 「運動不足だしね、散歩がてら・・・」 と言っていたけど、心配して様子を見に来てくれたんだろう。 福山の人はいい人だ。 2人でそのまま戻って、車に乗り込む。 次に行くのは市迫城と殿奥城。 ここからそう遠くはないんだけど、せっかくだから送ってもらった。 今度は「山方会館」という公民館だか集会所だかを目指せばいいので わかりやすかった。 私はこの後、ずっと北の方角へ向けていつものごとく 歩き通すつもりでいた。 いちおう距離とかも図って歩けるようなプランを組んだつもりだけど、 おじちゃんは無理じゃない?と言っていたし、 最初に大谷城へ向かう車から見ていた時、結構距離あるな~と 弱気になりかけた。 おじちゃんとは山方会館の手前で別れたけど、 車を呼ぶ場合でも、他の人だと説明に困るかもしれないからと ケータイの番号を教えてくれた。 市迫城へは、この細道を入っていく↓。 写真がなぜかないんだけど、この左奥が山方会館で、 福山通運の創業者・渋谷昇さんの生家跡なんだそうな。 この奥には石碑もあった。 上の写真の左の土塀の瓦↓。 あら、素敵な瓦じゃな~い 山方会館では、ジジババがゲートボールをしていた。 いちおう道を聞いてみたら、何人か集まってきてジイちゃんに 「無理じゃろ」 って言われた。 無理って、なにが? 途中まで道はあるはずだけど? 出鼻をくじかれてムッときた私は、おしゃべりもそこそこに山へと向かった。 まずは市迫城。(大まかな変遷については「大谷城(3)」をご覧下さい) 大谷城から少し北東にある殿奥城の山頂から北西へと延びる尾根の先端に位置する。 山方会館から少し上がった所に登り口があった↓。 山の反対側には池がある↓。 市迫城跡へは、この道を上がる↓。 ちょっと歩くと、すぐ上に着く↓。 マピオンへのリンク先の地図では、「黒明神社」とあるのがこの場所にあたる。 小広い削平地のようではあるけど、舗装路でここまであっさり来ちゃったし なんか城って感じじゃない。 地形的にも、尾根の先端にある出丸って感じだよな。 前回の記事で「西備名区」からの引用で有地元盛が市迫城に住んだと書いたけど、 ホントか? 同じ引用の中で景宗・景信の名前も出てきたけど、 当主の弟が出丸に住むっていうんならまだわかる・・けど、 元盛って有地を継いでる人みたいだからな。 すぐ背後に堅固な殿奥城が控えてるのに、わざわざこんな場所へ移る必要が あるんだろうか? まあ、麓からはホントにすぐで「裏の小山」ってレベルだから、 居館としてならアリかな・・・ ただし、そんなにここ広くないけど。 ここはいちおうピークになっていて、周りの斜面に遺構とかあるかな?と 周囲を回ってみたけど、木が繁っているせいもあって何もわからなかった。 さて、市迫城はこれで終わり。 このまま殿奥城を目指すんだけど・・・ ここから行かれる道はなさそうだな。 資料を読み返すと、来た道の途中から山へ分け入っていくらしい。 え~、上がる時にはそんなの気が付かなかったけどな・・・ 戻りながら山側を注意深く見ていたら、山へ入る人の踏み跡がかすかについた 場所を見つけた↓。 この先は順調に整備された道ではないことは知っていたけど、 ここから山へ入って少し様子をうかがうことにした。 かすかな踏み跡を辿るけど、 所々土が柔らかくて人がほとんど歩かない道だということがわかった。 そろそろと進むと、少しして稜線に上がった。 もう12月に入る頃だから、下草はほとんどない。 木は稜線のそこらじゅうに生えてるけど、 かきわけなければ進めないほどの悪路でもない。 稜線にも、何となく人の歩いたような跡があるしな・・・ 未整備を承知の上で入ってるけど、無理をするつもりはないので ダメそうだったら引き返してこようと思いながら殿奥城を目指す。 途中には、人の手が入ったような道もあった↓。 何とな~く進めてしまう道だったのでどんどん進んできちゃったけど、 最初に稜線に上がった場所にマーキングをしておくのを忘れたことを 途中で思い出した。 あっ、失敗しちゃったな・・・ まあ、周りの地形は見ておいたから何とかなるでしょ そのまま、どのくらい進んだんだろう。 奥へ行くにつれ踏み跡も怪しくなってきたので、 とにかく稜線から外れないように進む。 周りに木が茂っているから、周囲の地形などもほとんど確認できない。 荒れてはいるものの、かつては里の人が出入りしていた雰囲気がある。 たぶん、山方会館で会ったジイちゃん達も若い頃はこの山へ入っていたんだろう。 人が入らない山は、段々こうして荒れていくんだな~と思った。 最後の方は結構枝をかいくぐったり歩きやすい道を求めて うねうね歩いてたんだけど、変に目が慣れてしまったので奥まで来てしまった。 そのうち、木のすき間から山頂とおぼしき高みが見えた。 が、ここまで来て登れそうな場所が見つからない。 仕方ないので、ここで戻ることにした。 後から縄張図や地形図を見て考えると、たぶんピークのすぐ手前まで 来ていたんだと思う。 殿奥城への稜線に上がってからは、木に囲まれて周りが見通せる場所は 全くといっていいほどなかったけど、木のすき間から見た山頂直下の山腹には とんでもない数の畝状竪堀が隠れていたんだと思う。 現地では全然見えなかったけど。 ついでに言うと、地形図を見ると殿奥城のピークの標高は174m。 すぐ南西にある大谷城のピークは262m。 周囲の展望が全くきかなかったからこの目で見られなかったのが残念だけど、 木がなかったら高くそびえる大谷城のある山が見えたことだろう。 田口義之氏が「備後の武将と山城」の中で 【鳥の奥を本拠とした清元にとって、大谷九の平の山頂は喉から手が出るほど 欲しい「要害」だった。 何となれば、大谷の山頂から鳥の奥城内の様子は手に取るように見えるからだ。】 (「有地氏の発展と鳥の奥、大谷城」より) と言っておられるのも、(途中までだけど)登った後ならよくわかる。 実物は見られなくても、地形図を見てるだけじゃわからないことも 現地を歩いてみると感覚としてわかってくることもあるのだ。 まあ、最後まで行かれなかったのは残念だけどこれも想定内ではあった。 何しろ1人なもので、何を優先すべきかというのはいちおう頭にはある。 ので、ここまでは良かった。 問題はこの後でした。 来た稜線を戻るだけだったんだけど、尾根の形すらよく見えないので、 一言で言って迷いました(笑)。 市迫城の手前で支尾根に入り込んじゃったんだよね。 支尾根の先端で下に民家が見えたので幸い現在地は特定できたけど、 なるべくなら元の場所から降りたい・・・ そう思って復帰すべく努力したけど、結局見つからず、 下までの高さはそうなかったので最後はムリムリに斜面を強行突破。 ここでだらだら書いてもしょうがないので書きませんが、 かなりウロウロして時間を使いました。 いや~、山で恐いのは道迷いだから、山をやってた頃に そういう本も色々読んでどんな心理かとか頭では知ってはいたけど、 結構キツイっす。 私の場合はまだすぐ下に麓が見える位置だから良かったけど、 完全な山の中だったらやっぱりパニックになるね。 焦っちゃいかんと思って冷静になるよう努めたけど、 精神的に相当きました。 して、ここが「備後トラブル集・そのいち」で書くのを先送りにした みっつめの城という訳です・・・ にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年08月13日 23時08分28秒
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