カテゴリ:上野と寛永寺
それにしても、上野に少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀る神社が
あったとはな・・・ 少彦名命は「福山編(18)」でちょっと出てきましたが、 あの時書くのを我慢した爆笑エピソードをお持ちの神様です。 いずれその話を書きたいと思ってたんだけど、 当面書く機会はなさそうなので、御存知の方も多いでしょうが 簡単にご紹介しましょうね。 ある時、大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命の間で 重い粘土を担いで遠くまで歩くのと、大便を我慢して遠くまで歩くのと どちらがつらいかという話になった。 大:いんや~、俺は力自慢だけど、粘土を背負って歩くのはやっぱな~。 少:いんや!ウンコなんか我慢しようと思ってできるもんじゃないじゃん! しかも、歩くんだよ?ムリムリ!ウンコだね、ウンコ!! 大:・・・ふん、なら、やってみようじゃねーか。 俺はウンコを我慢する。お前は粘土を背負って行けよ。 少:お~し、受けて立とうじゃねーか!! どうせウンコもらすに決まってんだから・・・ 大:ふん、言うじゃねーか。後で吠えヅラかくなよ! 少:フンフンて、オヤジギャグかましてんじゃねーよ!! こうして大己貴命はウンコを我慢して歩き、体の小さい少彦名命は粘土を背負って どちらの言い分が正しいか勝負することになった。 それぞれが我慢しながら歩くこと数日。 大:・・・あ、ああっ、もうダメ!! と大己貴命が先に座り込んで、その場で大便をした。 少彦名命もすぐさま 少:ふぃ~、もうダメだ・・・ と粘土を放り出した。 ・・・という、神様のバカっぽいお話。 セリフは脚本家・戦国ジジイが脚色入れてますが。 さて、わたくしもバカ話を書いてスッキリしたところで、 境内に戻りましょう。 ↑これが五條天神社の社殿。 花園稲荷神社のよりは大きくて立派。 しかし、よく見ると2つの神社の社殿は回廊でつながってる。 そうか、花園稲荷神社の小部屋で着替えてた若くない兄ちゃんは こっちから来たから、現在では2つの神社を兼務してるのかもな。 社殿前の狛犬↓。 ここは社殿前の石段に柵がしてあって社殿には近寄れないので、 おしりの写真はありませぬ。 紋はガマの穂らしい。 ここには「虎徹の井戸」があるって話だったんだけど、 見当たらなかった。 どうやら社殿の脇の方にあるらしく、お願いしなければ見られないものらしい。 それから、神社のホームページを見るとここにも赤穂浪士の遺品やら遺墨やら あるらしく、(12月14日)とあるので、討入りの日のみ公開されるのかもしれない。 社殿の脇にある舞殿↓。 舞殿の脇にある鳥居↓。 ここから不忍(しのばず)の方に降りられるみたいだな。 社務所の方はえらい現代的↓。 社務所の脇を上がったところにも鳥居↓。 こちらが本来の入口らしい。 鳥居の手前にはこんな建物がある↓。 【この七福社は江戸時代上野の繁栄を願い山内各門に祀られた祠の中の 一つと云われます。】 (貼り紙より) あれ、寛永寺って8つの門があったんじゃ・・・(「上野第二編(7)」参照)。 初期の頃の話かな。 いずれにせよ、寛永寺の各門にそれぞれ七福社が祀られていたとは興味深い。 境内の隅っこには古そうな灯篭だとかそれなりにあるんだけど、 どうも全体的に綺麗すぎてイマイチ気が乗らないので、 そろそろここは終わりにしよう・・・ 正規の入口におわす狛犬↓。 以上で五条天神社は終わり~。 出たところから南へ少し坂を下ると、不忍池に出ます。 不忍はほとんど来たことがないよな・・・ ボートにも乗ったことないし(笑)。 第二編では、一気にここまで来る予定でした。 実際あちこち回ってみると、とても私にはこなせるスケジュールじゃなかったんだけど、 もしあの時来られてたらちょうど蓮が咲いてた時期だったろうに・・・ 山内にある神社や史跡よりは当然人も多かろうと思ってはいたものの、 入口まで来てみると うおっ、なんじゃあこりゃあ~! すげえ屋台、すげえ人・・・ しょうがないよな、どうせここはいつ来てもこんなんだろうと諦めて奥へ。 が、賑わしい境内の紹介に入る前に、少し歴バナをば。 現在でも不忍池は結構な広さがあるけど、大昔は古石神井川が武蔵野台地の東側を 海へと流れ込んでおり、寛永19年(1642)頃の古い絵図には 上野のお山と本郷台地の間に古石神井川が作り上げた谷が描かれている。 その頃は不忍池の北側は水田として利用されていたようで、 古石神井川谷の先っぽ、現在の不忍池付近に水が溜まっている様子がわかる。 明暦3年(1657)頃になってくると、だいぶ現在の池の雰囲気に近くなってはいるが、 池の場所には「志のわ津池」という名称が書かれている。 『江戸東京地形の謎』(芳賀ひらく/二見書房)には 【小竹が多く生えていたから篠輪津池だとか、はては男女が忍んで遭った場所だから、 などとも言われますが、確かなのは江戸期以前から、周辺に「忍岡」という 地名があって、そこから案出された池名であるらしいということです。】 とある。 芳賀氏は古石神井川の先っぽに溜まった水場・・・つまり不忍池のことを 井伏鱒二の小説とかけて「山椒魚」と呼んでおり、 【この山椒魚の頭は、旧石神井川の河口が砂州の堆積で塞がれてできた沼沢地を 起源としていたことは別に触れます。いずれにしてもこれは台地を水流が 浸食してできた河谷の、「出られなくなった」姿ではあったのです。】 (前掲書より) と解説する。 ふ~む、かつてこの辺が沼沢地だったとはな・・・ 縄文時代頃には、このあたりは海だったそうな。 さて、江戸期に入り寛永寺ができると、天海は不忍池に弁天を勧請することにした。 寛永寺の堂宇やその周辺は、叡山を模したものが多いという一般論は これまでにも紹介してきたけど、不忍池を叡山の東にある琵琶湖に見立てたというのだ。 私は今も、寛永寺とその周辺が叡山を徹底的に模倣したという話には懐疑的なんだけど、 『寛永寺』では次のように説明がある。 【天海僧正が常陸(茨城)下館の城主水谷伊勢守勝隆の協力を得て、不忍池に中之嶋を 築き、そこにはるばる琵琶湖の竹生嶋から弁財天を勧請してお祀りしたのは、 比叡山の山麓の一方が琵琶湖だったからにほかならないのである。いわば、不忍池は 江戸に於ける琵琶湖なのであり、中之嶋は竹生嶋ということになる。 従って、関東に江之嶋や鎌倉(鶴ヶ岡)のように如何に著名な弁財天が存在しようとも、 勧請するのは竹生嶋からでなければならない訳である。】 ・・・うん、まあ、確かにわざわざ竹生(ちくぶ)島からってのも不自然ではあるけどね。 で、当時はほぼ池だったのを、水谷(みずのや)勝隆が小島を作ったとされる。 この小島が上の写真に写っている人気スポットのベース。 ただし、当初はホントの「島」で、舟で池を渡って参拝するようになっていた。 その頃は池の中に鳥居が立っており、舟で鳥居をくぐっていったんだそうな。 水谷勝隆は備中松山城の城主にもなっていて、ウィキペディアを見ても どうも土木関係に強い人であったらしい。 それを見込んで天海が協力を要請した可能性もあるけど、 天海が大躍進を遂げる前、下野久下田にいた頃に勝隆と面識ができたんじゃないか という気もする。 天海と勝隆は仲が良かったと何か(←忘れた)でも読んだしな。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年06月10日 22時25分06秒
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