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戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年09月26日
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カテゴリ:旅日記(近畿)
それでは開山堂の中へ。
内部はすべて撮影禁止のため、写真はありません。

入口で受付を済ませて暗い廊下を進む。
暗いながらも柱などには太い立派な木材が使われ、さすがの風格。
ここを進むと、庭に面した明るい広縁に出る。

入口があるのは方丈(客殿)で、文化2年(1805)に建立された
妙心寺の塔頭・玉龍院の方丈を明治10年に移築したものという。

開山堂は通常非公開で、今回の「京の冬の旅」(非公開文化財特別公開)で
開山堂内部が公開されたのは8年ぶりという。
方丈の部屋の戸は開け放たれ、ここには障壁画などがあるので
ぱらぱらといた客はみな方丈の部屋に入ってそこを拝観していた。
が、わたくしはそもそもそれがお目当てじゃないので歩きながら見つつその奥へ。

方丈の先には南へ向きを変えて渡り廊下があり、
廊下で方丈と連結された奥の建物がわたくしのお目当て。

開山堂はかつては「興国護国院」と呼ばれていたらしいが、
一番奥にある建物は「開山塔」といい、
ここが建仁寺開創にして日本臨済宗の祖である栄西さんの御廟。

ということで、最後のシメも墓でいかにもわたくしらしい内容の旅でしたが、
栄西さんのお墓はいつでも行きたい時にお参りできる訳ではないので、
幸運に恵まれたと思います。

今回の旅で回った墓は、お祖師系では最澄・法然・栄西。
中興の祖系では蓮如・円仁と良源さん。
良源さんの四哲のうち、禅師の君(尋禅)・覚運・覚超の3人までゲット。
あと輪王寺宮では公弁法親王・公遵法親王・公延法親王などと
歴史に名を遺した著名人ばかりで満足できる収穫でございました。


さて開山塔は奥へ細長い構成となっており、手前から礼堂(らいどう)、
相の間、祠堂(しどう:または真室ともいう)の3段構え。
このうち参拝者が立ち入れるのは礼堂までで、祠堂はよくわからなかったけど
礼堂から相の間までは瓦が四半敷になっており、
冬の朝なので冷え冷えした感じではあるものの、
それすらも開山の御廟という厳粛な空間を醸し出している。

相の間の中央には香炉が置かれ、その奥の祠堂に栄西の坐棺が安置されているそうな。
ウィキペディアによると

 【建保3年(1215年) 享年75(満74歳没)で入滅。かつては、入滅日
 (6月5日・7月5日)と入滅地(鎌倉・京都)に異説があったが、『大乗院具注歴日記』
  の裏書きによって、7月5日京都建仁寺で入滅したことが確定している。】

だそうで、この地で亡くなり、この地に葬られたということらしい。

フツー、観光客で墓に率先して来る人はいないし、
方丈の方では係のお姉さんによる解説などが始まっていたようなので、
御廟には誰も来ない。

静かな中で礼堂から栄西さんにお参りして、しばし塔内を観察。
もらったチラシには明治17年の建立とあるものの、祠堂は享和年間(1801~04)
だったりと、明治にすべてを新造したものではないらしい。
とは言っても天井も高いし、開山にふさわしい実に立派な建物。

礼堂も庭に面していてここは明るいんだけど、
採光はほぼ自然光だけなので、奥へ行くほど暗い。
祠堂に灯明はあるにはあるけど、暗いし遠いしであまりよくは見えなかった。

しばらくすると、方丈の一団を引き連れてお姉さんがやってきたので、
静かで幸せなわたくしの時間はここで終わる。
正直言って、一般的な説明はわたくしはいらないので
早く説明を終えて退散してくれないかな~と思ってたんだけど、
まあ一応説明に加わって話を聞いてると、祠堂の向かって右側にある木像は
栄西を支援した鎌倉二代将軍・頼家のものだそうな。

建仁寺の開山は栄西だけど、開基は頼家なので、
栄西の550年遠忌にあわせて宝暦3年(1753)に造像されたらしい。
祠堂にはほかにも栄西の座像(寛文4年:1664作)と
乙護法天童像(宝永2年:1705作)の座像があるんだけど、
とにかく暗いし、特にこの時は光線の加減で顔はほとんど見えなかった。
ま、トーハクの企画展の図録に写真がばっちり載っていたので、
後日栄西像を写真で拝むことはできましたが。

お姉さんの説明は、当然栄西さんの略歴にも及ぶ。
栄西さんが宋から禅を持ち帰ったことについては、

「まあ、それまでの仏教はもう古かったんですね~」

と言っていた。

確かにそういう言い方もできる。
できるけど、禅は何も新しいものじゃないし、
日本にはすでに最澄によって持ちこまれてもいたし、
最澄以前に渡来した外国僧たちで禅をマスターしている人もいる。

それに、何か一つだけを「選択」した新仏教が浸透したあとに生まれた現代人だからこそ
それ以前の仏教を「古い」と感じるだけであって、
もともと沢山の方法論が用意されている仏教には
わたくしに言わせると古いも新しいもない。
ただ、途中から時代性などに応じて「選択」をする人が増えたのと
当時の大陸では発展形の禅がブームだっただけの話。

ま、観光スポットとしての解説はこれで充分なのかもしれないけど。

ところでお姉さんは、栄西さんのことを「えいさい」ではなく「ようさい」と言っていた。
歴史というのはなにか新発見などがあると簡単に定説が塗りかえられたりするので、
わたくしが教科書で勉強した大昔から呼び方が変わったのかと思って
あとでお姉さんに聞いてみたところ、特に変わったということではなく、
建仁寺では昔から「ようさい」と呼んでいるのだという。

確かに、栄西の『興禅護国論』の解説本には「イヨウサイ」というフリガナがあるしな。
ちなみに、前回栄西さんを「明菴栄西(みょうあんえいさい)」としてますが、
「みんなんようさい」とも読みます。

お姉さんがプチツアーを率いている時、わたくしは主に前庭などを見ていた。
綺麗に整備された庭には栄西が2回目の入宋の時に持ち帰ったとされる菩提樹があり、
庭の一角には経蔵もある。
そして正面には大きな門があるが、これは閉まっていた。

ところで寺には菩提樹がよく植えられてるけど、

 【菩提樹は当時南宋で盛んであった釈迦(舎利)信仰と結びつきが強く、栄西の持ち帰った
  菩提樹は福岡市香椎宮や奈良市東大寺に植えられたことが知られます。今日、寺院や
  神社の境内に見られる菩提樹は、栄西の持ち帰った菩提樹信仰と深い関係があるのです。】
  (岡山県立博物館平成25年度特別展『栄西』図録より)

だそうな。


説明が終わり、一団が解散したあともしばらく礼堂で浸ってから
方丈の障壁画などをぼちぼち観て、退出。
そういえば、入口でザックを預かってくれてたんだっけな。
で、靴をはいて出ようとしたらすぐ目の前にある門の内側の意匠に目がいった。

内部撮影禁止といっても、門ぐらいならいいんじゃないかと思うけど、
なにせ受付のすぐ前なもので、一応入口のお姉さんたちに聞いてみた。
お姉さんたちは、まあいいとは思いますけど・・・と言ったものの、
明らかにとまどっている。
たぶん、お姉さんたちは特別公開のために派遣された臨時のスタッフだろうし、
そういう人たちを困らせるのも何だと思って大人しく引き下がった。
門を撮りたいなんて言い出す輩は今までいなかったんだろうな(笑)。

この時点でもう11時近い。
昼過ぎの新幹線といっても駅で最後にみやげや昼メシを物色せねばならんので
なるべく早く知恩院に戻らなければならないんだけど、あともうちょっとだけ・・・

開山堂を出て元の通路から南へ向かうと、すぐこれがある↓。

       叡山5・建仁寺24

 【平成の茶苑

  ご開山 茶祖栄西禅師は宋の国(中国)から我国にお茶の種子を持ち帰られました。
  「茶碑」後方の茶園は、「茶」将来800年(平成3年)を記念して植樹栽培した
  平成の覆い下茶園です。毎年5月10日頃、初摘みした茶葉を石臼で挽いた抹茶を
  御開山毎歳忌(6月5日)にお供えし、ご遺徳茶恩に感謝の誠を捧げます。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)

「茶碑」はこの左のデカい碑だと思うけど↓

      叡山5・建仁寺25


      叡山5・建仁寺26

右の石碑にもなにやらびっしり文字が刻まれている。

 【榮西禅師茶徳顕彰碑銘

    茶は 養生の仙薬 なり
       延齢の妙術

  これは建仁寺御開山榮西禅師(1141~1215)の『喫茶養生記』の巻頭の句です。
  禅師は備中岡山の生れ、仁安3年28歳の時と文治3年47歳の時と二度に亘って宋代の
  中国へ艱難辛苦の末渡航され、天台山、孝宗皇帝から「千光」の号を下賜せられ、禅宗を
  我国へ初めて傳えられました。

  帰国後、建仁2年(1202)に建仁寺を創建されました。また中国から茶の種子を
  持ち帰り、茶樹の栽培と喫茶の風習の普及に尽力され、我国の茶祖と仰がれています。
  建仁寺とお茶のつながりはよく知られていますが、更に一人でも多く禅師の徳にあやかれる
  よう、開山堂前に茶碑を建立致しました。茲に禅師への報恩と山門の境致荘厳を念願し、
  長く茶祖榮西禅師のご遺徳を讃仰せんとするものであります。】
  (碑文より。漢数字は戦国ジジイが変換)

浄土院のところで最澄が唐から茶の実を持ち帰って栽培したという伝承を紹介しましたが、
他の文献にも栄西以前から日本に茶が入っていたことを示す記述があるそうだし、
禅そのものも栄西が初という訳でもないので誤解を招く表現だとも思いますが、
ひとまず茶については

 【茶種や喫茶法は、平安時代初めに遣唐使や最澄など入唐求法僧により請来されていました。
  この喫茶法は現在「団茶」と呼ばれるものに近く、蒸した茶を団子状にこねて、これに湯を
  注ぐ形式のものでした。一方、栄西がもたらしたのは抹茶法による「宋式」喫茶で、茶器や
  苗木、茶種を合わせた総合的な喫茶法でした。】
  (前掲図録より)

ということで「本邦初」じゃない。
しかも、『栄西と建仁寺展』の図録によると、栄西が生まれる以前から宋式喫茶(点茶法)に
ついての記述が多く存在し、また栄西帰国以前の12世紀末の中国産の天目茶碗が
出土していることから、必ずしも栄西が全く新しい茶のスタイルを持ち帰ったということでも
ないらしい。

だからといってもちろん栄西の功績が全くないという訳でもなく、
『喫茶養生記』の執筆をはじめ、鎌倉幕府へ接近したことで
武家の精神にマッチするものとして禅と茶のタイアップで
武家を中心に受け入れられていったことなど、広く喫茶の風習が根付く素地を整えた。

トーハクの『栄西と建仁寺』展では建仁寺で今も行われている特別な喫茶儀礼の茶会
「四頭(よつがしら)茶会」で使われる茶器の展示のほか、茶席を再現したブースもあった。
図録には四頭茶会の作法の紹介もあるんだけど、堅苦しくて大変そう・・・
じゃなくて、茶とゆかりの深い建仁寺らしい格式ある茶会のようです。


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最終更新日  2015年09月26日 21時50分58秒


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