208422 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

栃木の仙人 古本と温泉の日記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2009年03月18日
XML
カテゴリ:政治
最近、東京地検特捜部が暴走ぎみのようです。組織全体がまるで昔の帝国陸軍、とりわけ関東軍作戦参謀の「辻政信中佐」みたいになっているようです。

法を守る執行機関として警察組織も検察官も必要ではありますが、その職域は、あくまでも「法の番人、厳正中立な執行機関」であるべきであります。

花形プレイヤーとしてその挙動が社会の脚光を浴びる、「大きな仕事をやりたい」「手柄をたてて名前を残したい」みたいな血沸き肉おどるヒロイズムが、組織の暴走の背景にあるとしたら恐ろしいことだと言わねばなりません。

ドイツにラードブルックという法哲学者がいて「法」と「道徳」の違い、とりわけそのことから生じる法律(ルール)として持つべき公平な価値中立性とは一体何かを論じました。

「価値観」や「道徳」は社会や個人により様々であります。キリスト教社会とイスラム教社会でも違います。同じ日本の社会でも家によって会社によって価値観は微妙に違うことでしょうし、「正義」や「悪」といった価値観も場所ごとに違う筈であります。

ある社会では「善」とされている価値観でも別の社会では必ずしも「善」でないかも知れない。Aという社会の価値観=善悪の基準でBという社会を裁くことはできないし、その逆もまた然りであります。

そこで道徳という価値基準とは別に厳正中立な「ルール」というものが出てきます。A社会もB社会も、国家という社会集団に帰属する以上、お互い言いたいことが山ほどあったとしても、そして独自の価値観を持っていたとしても、とりあえずこの「ルール」を守らなければなりません。

これこそが「法」でありまして、善悪=道徳と密接な関連、相互の影響関係を持ちつつも、道徳とは微妙に違う

この違うという部分が実に重要なのであります。

偉大な法学者ラードブルックはこの違うという部分を法哲学的角度から深く細かく分析したのであります。

もちろん国家も国際社会に属する以上、国際法や条約などの拘束を受けます。

善悪=道徳の宣教者と法の守護者とでは、プレイヤーとしての社会的役割が違うのは当然であります。

宗教家や社会思想家、教師をはじめとする啓蒙的役割を担う人たちは、当然、自分たちが独自に信じる「善」や「悪」を語ることができますしそれが公的な仕事でもあります。

人々を導き、指導し、何が善で何が悪かを表明し、影響力を行使することで、社会の道徳や秩序の価値形成に強力に参与するわけです。

道徳や倫理、社会のルールを厳守する、「相手に対するやさしさ」「思いやりの気持ち」「弱者救済」「ひとりひとりの公的役割」などの教育が行き渡った社会では犯罪など起きない、起きたとしてもごくわずかである筈です。

ここにおいて宗教家や社会思想家は法律家とともに「秩序を守る」という社会的役割を分担します。

しかし、宗教家や社会思想家は自分たちが語る「善」「悪」に反することがらに遭遇した場合、相手に「刑罰」を課すことはできません。

そこまでやると越権行為となってしまう。

それは法の守護者たちの役割であります。

逆に法の守護者・番人たちが、法以外の特定の恣意的主観的倫理にもとずき、市民生活に過度な干渉を加えることは「越権行為」となります。

あいつは虫が好かない、あいつはきらいだから監獄にぶちこんでしまえ、みたいな行為は、あきらかに行き過ぎであります。

警察が法にもとづいて違法行為を取り締まるのとは違い、地検の特捜部が「巨悪」を追求するのは、それを行うことによって、それとよく似たその他大同小異の「群小諸悪たち」に警告を与え、犯罪行為を未然に思いとどまらせるという「見せしめ」的な役割、警告としての社会的機能が認められます。(刑法総論に出てくる規制的機能と同じです)

「あいつと同じことをやったらこんな目にあう。だからやめよう」という訳です。

社会正義に燃えた検察官や法律家の存在、それはそれとして重要であります。

しかし、それが行き過ぎてしまうと、地検の特捜部が「社会の善悪を俺たちが決定する」「俺たちこそが世の中を動かす力の源である」みたいな方向、本来与えられた役割を超越し、モンテスキュー的三権分立のバランスをあきらかに欠いた、おかしな方向へと行きかねません。

犯罪だらけの社会も当然よくありませんがいたるところ警察官や検察官だらけ、彼らか肩で風をきって闊歩する中みんなが、いつ告発され、逮捕されるか解らない、魔女狩りみたいなものにびくびくおびえて暮らさねばならない警察国家なども息苦しい社会であり考えただけでもぞっとします。

寛容の精神にもとづく多様な価値観の共存、市民社会の自由と権利としての平等はきちんと確保されたうえで必要最低限度の「警察」「検察」の働きは必要ですし、同時に彼らが暴発しないような監視システムも必要なのです。

また組織が総体として同じ過ちを繰り返している実情があると仮定したならば「どこかにおかしな奴がいる」という「悪者さがし」的発想でなく組織それ自体の機構的問題点の抽出と法的整備にもとづく抜本的再発防止策が必要となることでしょう。

論じはじめるときりがないのでやめますが最近の東京地検特捜部、法の番人としてあるべき彼らの役割は、あきらかにバランスを欠いた不自然な方向へと暴発している印象であります。

なをここに書いた問題提起は検察のありかたを論じる主旨であって特定の政党の肩をもった論理展開ではありませんので、くれぐれも誤解のありませんように。

 

この問題を論じる上で参考になる古典的文献が、元外務省の分析官だった佐藤優さんの「国家の罠」という書籍です。政治家の鈴木宗男事件にからんだ佐藤さんの活躍がもとになって「国策捜査」という言葉が一般社会に定着することになりました。

法の役割、国益と公益の違い、その優先順位はいかにあるべきか、検察の本来あるべき役割をめぐって今だ興味深い問題提起を投げかけています。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2009年03月18日 16時28分03秒
コメント(0) | コメントを書く
[政治] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.