カテゴリ:活字と映像の覚え書き
先日の飲み会で、「小説を読まねば!」というテンションで図書館へ向かい、ついうっかり立ち読みして結局借りて帰った。
殺人者となる中学生女子たちの物語。
「いわゆる不良少女もの」はことごとく感情移入できない。一方で『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』もこの物語も、強烈に「わかる」感があって、『砂糖菓子』なんかはそうした大人たちのあいだでじりじりと広まっていったと聞く。 面白かったか、好きか、と尋ねられたなら大きく頷くのだが、では誰かに薦めるかといえば、薦めない。そこが「いわゆる不良少女もの」との違いだろう。これを読んで「わかるよーいいよねー」と群れる大人が、というか人間が、いるわけない。その圧倒的な孤独と絶望、そしてさらに決定的な違いが、 「憎悪の有無」 ではないかと思う。 「いわゆる不良少女もの」のベースに流れているのは、大人からそして社会から大事にしてもらえないという悲しみで、主人公らはその悲しみを怒りに転化し暴力に「昇華」しながら大人になろうとする。目指すゴールは「もっと自分を大切にしなさい」という答えだ。やがて主人公は成長し、親の歴史を再生産する。 そこに、憎悪らしきものはほとんど無い。行動こそは反社会的であっても、彼らはそんな反社会的な感情を好まない。悲しみや寂しさは共有されやすく、群れて集って緩和される。 桜庭作品のこの系列の作品では、憎悪と殺意にがんじがらめの少女たちが描かれる。 タバコ吸ってパクったバイクで暴走して喧嘩に明け暮れる余裕など、あるものか。というか、そんなことして少しでも憎悪が薄れるとか、ありえないし。 反社会的な憎悪と殺意は、共有しがたいものだ。 だからこそ、共有できたときの救いは大きい。「こんなものを共有していいのか」というインモラルな圧力も含めて、共有の喜びは深く、強く、逃れがたい。 しかし、憎悪を解消する術はひとつ。 殺すしかない。 その意味で、見事に相手を殺し、さらに「ちゃんとした」大人に辛くも出会えるこの物語は、涙が出てくるほどのハッピーエンドではないか。読後のやりきれなさとカタルシスは、「ありがとう。私の代わりに殺してくれて」というゴールをくれる。 一方で、「すべては、殺す気になれば断ち切ることができるんだ」という光が、そこにある。 憎悪を飼っている大人へ向けて綴られた物語、と読める。 普段、ちゃんとした大人を演じている、大人へ。 大丈夫。親の歴史を再生産する以外にも、生きる道はあるのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
April 17, 2016 07:36:56 AM
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