カテゴリ:元気の出る言葉
京都の北野天満宮、没地の大宰府天満宮どちらも菅原道真公が主神として祭られているが、昨日博多から少し足を延ばして、大宰府天満宮に参拝してきた。4度目の参拝だが、新しい発見もあった。摂社福部社のご祭神が違うことで、北野では牛管理の舎人十川能福で、大宰府では恩師島田忠臣となっている。今後調べてみる必要がある。また、境内の一部5万坪が寄贈され、2005年10月に開館された九州国立博物館も、長いエスカレーターの乗り継ぎの先に威容を誇っていた。アジアとの文化交流の歴史を中心に展示され、1階では実演付で九州伝統工芸品展も開催されていた。プロの技と心意気をちょっぴり垣間見た。 菅原道真は当時のハイカラさんで、当時の先進文化の中国文化に造詣が深く、まことの心を持って、国の発展と学問の道に精進し、大和心のすばらしさを唱えた。そのため正直・至誠の神、学問の神とされている。保険仲立人の先進性と誠実義務と専門性を考えるとき、管公以外にふさわしい神はいないだろう。平成20年2月25日をもって、勝手に保険仲立人の御祭神を菅原道真にすることに決定した。もう少しパワーをつけた時点で、両社に正式に申し入れしたいと思っている。 北野天満宮の由緒は、永延元年(987)一条天皇の令により初めて勅祭が執り行われ「北野天満宮天神」の神号を得ている。御祭神菅原道真公は延喜3年(903)2月25日、無実の罪も晴れぬまま太宰府の配所で昇神され 天暦元年(947)おいたわしい御神霊の慰霊と皇城鎮護の神として北野の地にお祀りされました。(北野天満宮縁起より抜粋) 正直・至誠の神 海ならずたたへる水の底までも清き心は月ぞてらさむ」 御歌が示す通り清く明き誠の心を生涯貫かれた。また、「9月10日」の詩・「恩賜の御衣」に象徴されるのは忠誠心。配所で天皇から賜った御衣を毎日捧持し、余香を拝された菅公に至誠の権化として神格の一面を見る。(北野天満宮縁起より抜粋) 延喜3年(903)2月25日、菅公は謫居(たっきょ)の地、南館(榎寺)において清らかな御生涯を終えられました。その後、御遺骸を牛車に乗せて進んだところ、間もなくその牛が伏して動かなくなりました。これは、菅公の御心によるものであろうとその聖地に御遺骸を葬りました。京より追従した、門弟味酒安行(うまさけのやすゆき)は延喜5年ここに祠廟(しびょう)を創建、次いで左大臣藤原仲平は勅を奉じて大宰府に下って造営を進め、延喜19年に御社殿を建立しました。醍醐天皇は大いに菅公の生前の忠誠を追懐されて、延長元年(923)に本官を復されました。そして、一条天皇正暦4年(993)には正一位左大臣、更に太政大臣を贈られ、天満大自在天神(天神さま)と崇められました。(大宰府天満宮縁起より抜粋) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.12.09 12:03:03
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