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翔建築設計の所長日記

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yoshiki@ Re:●建築家のお仕事(634)竹内日祥上人の講演(01/21) はじめまして私も2000年から竹内日祥上人…
2007.04.03
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カテゴリ:歴史
下野薬師寺

1200年前の話です。
三戒壇の1つとして国家宗教の中で確固たる地位を築い
た下野薬師寺。国家庇護の下発展を続ける。

三戒壇とは、下野薬師寺筑紫観世音寺東大寺である。

『授戒』が大きなキーワード。

授戒に必要な十師が揃って授戒の儀式を執り行っていた
のは東大寺だけ。

下野薬師寺と筑紫観世音寺では5人による略式の受戒儀
式が行われていたのである。

下野国司からの派遣要求に対して、「講師」は東大寺か
ら派遣されることになった。

ここが大切なこと・・・・

下野薬師寺が、東大寺末寺化を招くことになった。

しかし、当時はまだ下野薬師寺には東国全体から大勢
の修行僧が集まり、活況を呈していた。

下野薬師寺の存在意義は「受戒」にあった。

「受戒」は形式化形骸化していって、9世紀末には得度
した者が直ちに受戒が認められるようになった。


しかも天台宗を始め、新仏教 の隆盛が追い打ちをかけ、
天台教団は822年、延暦寺に独自の戒壇を持つに至
っている。

下野国が生んだ第3代天台座主円仁も下野薬師寺で修行
した形跡はない。岩舟町の大慈寺で修行を積んだあと、
比叡山に登って修行している。

天台宗や真言宗といった新宗教の普及に対して旧仏教
の南都七宗の抵抗もあったが受戒の重要性は薄れてい
くばかり。
それとともに下野薬師寺は衰退の一途をた
どったのである。


岩舟町の大慈寺の公智は大物で、天台宗最澄の東国布
教に大きく協力。第3代天台座主円仁をはじめ、第4代
安慧(あんね)など多くの弟子を育てた。

○まとめ、私の感想

国家宗教としての「仏教」を取り扱い、布教の最前線と
して造られた薬師寺だが、「受戒」という伝家の宝刀が
民営の新興勢力に押されて形骸化してしまった。

それとともに、薬師寺の勢いは下火になっていく。

また、三戒壇の一角にありながら、兄寺から「講師」を
呼ばなくてはならない。自立していないので、地域の沿
った施策もままならなかったことが想像できる。

国が施策として力を入れているうちは親方日の丸で繁栄
するが、成熟してくると形を変えて別の生き方を模索
しなければならないということか。



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2005-09-07 12:00:17
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Last updated  2007.04.03 09:36:13
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