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カテゴリ:京の史跡探訪
六波羅攻略 播磨国では赤松則村(円心)が挙兵し、その他の各地でも反乱が起きた。則村は周辺の後醍醐方を糾合し、京都へ進撃する勢いであった。 赤松則村 このような状況を見て、閏2月、後醍醐天皇は名和長年の働きで隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発した(船上山の戦い)。 後醍醐天皇 名和長年 幕府は船上山を討つため足利高氏、名越高家らの援兵を送り込んだ。
足利尊氏 しかし、4月27日には高家が赤松則村に討たれ、高氏は所領のあった丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻す。5月7日、足利高氏は佐々木道誉や則村らと呼応して六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧した。北条仲時、北条時益ら六波羅探題の一族郎党は東国へ逃れようとするが、5月9日、近江国の番場蓮華寺で自刃し、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇は捕らえられた。 佐々木道誉 北条仲時 光厳天皇 後伏見上皇 花園上皇 出典:六波羅攻略、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 六波羅探題陥落 後醍醐天皇の隠岐脱出、そして各地での倒幕運動の拡大。日に日に事態が悪化していく中、鎌倉幕府は、援軍の派遣を決定します。 この援軍の中には、後に鎌倉幕府を裏切る足利尊氏の姿もありました。 足利尊氏の攻める先は、隠岐を脱出した後醍醐天皇が身を置いている船上山(今の鳥取県琴浦町にある)でした。 その足利尊氏が突如として後醍醐側に寝返り、六波羅探題に攻め込んだのです。 足利一族は、関東ではかなりの名門で鎌倉幕府でも重要な軍事力として重用されていました。しかし、足利尊氏は北条氏に服従し続けることにどうしても納得がいきませんでした。 足利氏は元を辿れば後三年の役で活躍した源氏の英雄、源義家から繋がる血筋。 一方、北条氏は桓武平氏、つまり平清盛も属していた平氏の一族だったんです。これに足利尊氏は不満でした。 足利尊氏「源平合戦では源氏が勝利し、そのおかげで今の鎌倉幕府がある。それなのにこの現状はなんだ。俺は本当に桓武平氏の北条氏に服従しているだけで良いのか?今こそ、再び源氏が立ち上がる時だ!」 しかも当時は、こんな伝説が噂として広まっていました。 「平氏【平家政権】→源氏【鎌倉時代初期】→平氏(北条氏)【鎌倉時代中期以降】と歴史が動いている。とするならばだ、次は源氏の時代になるのでは?」(これは源平交代説とも呼ばれる) こんな噂も足利尊氏を後押しし、足利尊氏は大胆な行動に出たわけです。 足利尊氏が裏切った頃、実は京都は既に戦場になっていました。豊後国で放棄した赤松則村が六波羅のある京に攻め込んでいたからです。赤松則村は劣勢に立たされていましたが、そこに足利尊氏も参戦し、京では激戦が繰り広げられたと言われています。 この戦いで六波羅探題は滅亡。六波羅探題の統括者であった北条仲時、北条時益は自害。そして、後醍醐天皇の意を無視して即位した光厳天皇は捕らえられてしまいます。 鎌倉幕府滅亡 足利尊氏が六波羅探題に攻め入ったのは1331年5月7日、実はその翌日の5月8日、関東ではさらにトンデモナイことが起こりました。 北条氏の専制政治に不満を持った新田義貞が、挙兵。しかも、行き先は京ではなく鎌倉。京での混乱に乗じて、鎌倉を乗っ取ろうとしたのです。 5月22日には、新田義貞軍は鎌倉に到達し、鎌倉では大混戦が行われます。その様子はまさに地獄絵図。戦乱の後、鎌倉には大量の屍が無造作に横たわり、修羅の街と化しました。 足利尊氏のすべて/バーゲンブック{櫻井 彦 他編新人物往来社 時代} お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.06.05 07:47:59
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