テーマ:たわごと(26881)
カテゴリ:寂光
「うつ」の晴れ間なのに、することが無い。 そこで。 一度整理したいと思っていた。 ガキの頃から考え続けてた「己のレーゾン・デートル」について考察してみたい。 だから。 今日の日記は。 非常に抽象的で観念的なものとなる。 チットも面白くないので。 ・・・読まなくて良いよ。 小学生高学年の時。 夜中に不図「死」と云うものについて考えた。 今の意識はズッと継続していく。 そして、その果てには必ず「死」が待っている。 だから。 「今、こうして考えている自分」と「死ぬ直前の自分」との間には、 時間の経過があるだけで、意識は繋がっている。 1秒後に「死」を迎えるのは酷く恐ろしい。 でも、例え「数十年後の死」だったとしても「1秒後の死」と如何違うのか。 「同じ自分の継続した意識」が感じるのだ。 「その怖さ」は変らない筈だ。 と思うと恐ろしくて眠れなくなった。 仮想現実の中で何度も「自分の死の直前」を疑似体験していたのである。 でも。 歳を取ると「考える事」が非常に増えていく。 そして。 人の脳は歳と共に「鈍って」いくのだろうか。 何時からか、「死」への恐怖を余り感じなくなった。 それどころか。 受験戦争に明け暮れる中学・高校生の頃など。 「死の甘美な香り」に誘われていたような気がする。 「ズッと何もセズにこのまま眠ってしまいたい。」 これが、中高6年間の私の「最高の夢」だった。 大学に入って受験から開放されると。 「死」とは或る場面では、一種の快楽になる。 と考えるようになる。 「幸福論」の考察からの結論である。 「客船が難破して、『救命ボート』に避難する」 「そのボートの縁には多くの避難者が群がって捉まっている」 「でも一人でも乗せれば、満杯の『救命ボート』自体が転覆して、全員が死んでしまう」 「冷たい海水に体力を奪われ、『ボートに捉まっていた人々』は、一人また一人と波間に消えていく」 「最後は幼い少女一人になっていた」 この危機的な状況の中。 「ボートに座る一人の男性が、突如、海の中に飛び込んだ」 「その途端、ボートに乗る人々によって『気を失いかけていた幼い少女』がボートに担ぎ上げられる」 こうして助かった女性の『手記』を読んだのが切っ掛けである。 今、正に海の藻屑と消えようとしている少女を助けるために、自ら海に飛び込んだ男性。 彼の行為は、『手記』では「英雄」として綴られていた。 でも。 彼の「死」は、単なる「英雄的行為」だったのだろうか。 私の頭の片隅には、一抹の疑念が抑え切れなかった。 「幼い少女を見殺しにすること」と「自ら死ぬこと」 この2つしかない選択肢の中から、彼は「自らの死」を選んだ。 その選択基準は「快楽の追求」ではなかったのか。 そう。 彼は、「幼い少女を見殺しにすること」よりも「自ら死ぬこと」の方が「快楽」が大きかった。 と結論した。 だから。 「究極の快楽」である「幸福」も、「絶対的な存在」ではなく、「単なる相対的な存在に過ぎない」と直感した。 だから。 私の中では、「自分の死」も「絶対的な存在」から「相対的な存在」へと変異していった。 ・・・「快楽追求」のための「選択肢の一つ」に過ぎない存在として。 「自分の死」を相対化した影響は、それまでの「私の思考体系の根本」を変容させる。 「自分の死」を「逃れられない絶望」と云う位置付けから、「自分の選択肢の一つ」と云う考え方になると、「総ての選択肢の主体は、あくまでも自己に起因する」と云う思考を導くことになる。 こうして。 総ての事は、自分の責任により判断することで、他人に助けて貰うことではない。 と云う「自己完結型」の新しい思考体系が形成されていく。 これが、二十歳前後に創られた「私の考え方の基礎」である。 でも、そうすると。 「自分とは」と云う疑問が生じる。 詰まり、「アイデンティティ」の確立である。 これは、簡単なことではない。 学生と云う立場は、非常に曖昧な存在で許される。 でも就職すると。 「職場と云う環境の中」で、己の「アイデンティティ」を確立しなければならない。 学生時代の生意気な思索は、無知蒙昧な職場環境の中で木っ端微塵に粉砕される。 想像以上の「馬鹿の集団」の中では、「思索」よりも「幼稚な作業の効率」が優先される。 そのため。 己の「アイデンティティ」の確立どころか、「自分のレーゾン・デートル」すら失われそうになる。 その危機感から、己の「アイデンティティ」を守るための一時避難的行為として、「海外への独り旅」を選ぶことになる。 現実逃避の意味合いも大きかったが、取り敢えずは、それまでの「己のアイデンティティを守ること」だけには成功したようだ。 でも。 根本問題が解決した訳ではない。 「己のレーゾン・デートル」を求め、「己のアイデンティティ」を確立することを渇望するようになる。 「己のレーゾン・デートル」とは何か。 所詮は、「人から褒められること」なのか。 「人から認められる」なんてクダラナイことで、自分自身の存在価値を確立しようとするのか。 そんな行為は一切合財が「浅ましく」思えてしまう。 自分の選択の中から自分のレーゾン・デートルが産まれ、アイデンティティが確立していく。 今でも、そんな夢物語を追いかけ続けている。 だから。 ニーチェの「超人」の考え方に惹かれてしまう。 「超人」は「自らの力だけ」で「自らを最高の高見に導く」とする「思索」である。 私のような凡人が実現できるはずもないが、夢を見るのは私の勝手である。 いま。 大多数の人は。 他人(ひと)から褒めて貰いたいたがっている。 他人(ひと)から認めて貰いたがっている。 でも。 他人(ひと)なんて移ろい易いもの。 そんなもので「自己確立」が果たせるはずもない。 そして。 私の周りの、そんな多くの人は。 酷く「うざい」存在でしかない。 「うつ」になってタッタ一つ感謝したこと。 それは。 「自分自身しか自分を救えない」って再認識できたこと。 「自分のレーゾン・デートル」なんて「自ら認める」しか方法(しく)はなく、「アイデンティティ」なんて、そうやってモガイテ居る内に確立されていくのだろう。 そう。 考えることが出来たこと。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年10月04日 18時49分04秒
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