テーマ:たわごと(25914)
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大自然に包まれて、未だ誰も入った者のいない場所。
そこで、大樹が倒れたとする。 はたして、音はするのだろうか? 中坊のころ センセが、授業の合間に問うた命題。 貴方は、どう思います? 例え、人が居なくても、鳥や獣は居るだろう。 彼らの鼓膜には、大音響が届いたに決まっている。 そして 大気の振えが、音なのだから、振動の波形が形成されれば、それが音と云うことだろう。 様々な回答が在っていい。 この命題に、答えはない。 だから、みなさんの回答は、みんな、正解です。 アニメ『エヴァ』の最新劇場版が公開されたらしい。 人工衛星を破壊する冒頭シーンは、実際の物理法則に沿って、作画されている。 そう、物理学者のエヴァ・ヲタさんが絶賛したと聞く。 でも、ね。 爆発の際、破壊音が聞こえてくる。 それは、良いのかしら? むかし 宇宙空間での戦闘行為を、全て「無音」で通したアニメが在ったとか。 一部、マニアは大絶賛だったみたい。 けれど あんま、大衆受けをしなかったらしく、今でもアニメは、宇宙で音がする。 あたしは、それが、イケナイとは思っていない。 散々、苦しめられて。 やっと、敵の旗艦を撃墜したとき、ただ、艦載した酸素の分だけ光って終わり。 それって、余りにも、虚し過ぎるじゃない? あたしの、この怒りを、堪った鬱憤を、どうしてくれるのよ! そう、文句のひとつも言いたくなる。 だから 例え、宇宙空間でも、腹立たしいラス・ボスの最期は、大音響が相応しい。 物理法則では絶対に聞こえなくても、あたしたちの心の中には、ど派手に悲鳴が響いてる。 早いもので、今日は、大晦日。 年末年始は 豪華おせちに、神戸牛。刺身に寿司にすき焼きと、豪華絢爛だ。 ほんとに日本って不況なの? なんて、みなさん、ここぞとばかり贅沢をする。 あたしは、それで良いと思う。 ハレの日を喜び、祝う。 だから、ケ(日常)の辛さに耐えられる。 あたしたち日本人は、そうして生きて来た。 ハレもケもない、そんな、全く変化がない日々が、ただ続いていくのなら 誰が、人生に喜びを感じるの? すこおし強引にでも、一年の区切りを付ける。 明日からは、新たな未知が始まる、そう夢が見られるから、あたしたちは生きていける。 大掃除や御馳走が大事なのではなく、それが区切りの契機になるから大切なんだ。 あたしは、そう感じてる。 でも、ね。 七草粥とか、恵方巻きとか、貴方が、子どもの頃にあった? 「おせち」の長所は、主婦が、正月三が日だけでも家事から解放される。 けれど 七草粥って、なに? なんか、地方でも伝統食として、七草粥を1月7日に食すってのが、あるみたい。 まあ、「一年の無病息災を願って食べる」のは、判らんでもない。 けれど、「祝膳や祝酒で弱った胃を休める為」ってのが、理解できない。 大昔から、田舎の農民は酷貧だ。 正月だからと6日間も、飲めや歌えの大宴会が続いたとは、考えられない。 せいぜいが、ハレの日の餅くらい? それで、弱る胃腸なら、ケの毎日で、弱り切っているはず。 「君がため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ」って、光孝帝の歌。 あたしのイメージは、どーしても、こっちの方だ。 七草粥には、そんな雅(みやび)な匂いしかしない。 庶民が、ビフテキや高級寿司に舌鼓を打つのは構わない。 それは、単なる贅沢だから。 お金を握れば、誰だって贅沢をしたくなる。 けど、ね。 精進料理は、魚や獣肉を断った、お坊さんのもの。 七草粥は、生まれたときから、何不自由なく育った、お公家さんのもの。 それを 平々凡々と生きて来た「小金持ち」さんが食べていいとは、思えない。 いや 食べても、本来の価値が判らない。 なら、食べても仕方ない…と、云うか。 誰が何を食べようと、そのヒトの自由だろう! 確かに、そうなんだ。 でも、ね。 例えば「トゥール ダルジャン」の鴨料理。 今は、星がひとつに成っちゃったみたいだけど。 そこの カモの血肉が混じった料理を食べて、あたしたちは美味しいと感じるかしら? 魯山人さんは、わさび醤油で食べたとか。 それが、所詮は庶民の食感・味覚で それが、旧態依然とした伝統・権威への、せめてもの抵抗だったのだろう。 このエピソードで、「流石は魯山人」と褒め称える声も聴くけれど あたしは、とっても、見苦しく恥ずかしい行為だと思う。 その 料理法・味付けが気に入らないなら、端から食べなければいい。 料理は、芸術とまで言わないけれど、一級の職人さんが作る完成品に違いない。 ゴーギャンの線が気に入らないと、画き直す。 そんなこと、セザンヌさんでも、大観さんでも、絶対にしない。 他人の作品を、完成品として尊敬できない。 その時点で、魯山人さんは、芸術家はおろか、職人さんとしても失格だと思う。 お金を持っていれば、何でも食べられる。 限った人しか食べられないなら、それは差別だ、不平等だ。 あたしたちは、直ぐ、そう口にする。 けれど 自分が食べるに値するヒトなのか?は、決して考えようとしない。 ヒトとしての資格が 持って産まれた氏素性に限られないならば それは、「如何に人生に苦悩したのか?」その、深度で決まるに違いない。 他人を追い、流行(はや)りを追い、ただ、年齢を積み重ねるのでなく 人生の悲哀、そして歓喜を味わって、人生の苦悩を舐め尽くして。 そうして 初めて、ヒトは、口にするものの、本物の味が理解できる。 ビフテキや寿司だけでなく 七草粥も、鴨料理も、いや、全てのものを、自分自身の感性で味わい尽くせる。 味は、ただ口蓋の舌で感じるでなく、心で味わうものかも知れない。 宇宙空間では、派手な音が響いてもいい。 けれど 誰も居ない場所で、例え大木が倒れても音はしない。 音は、耳の鼓膜でなく、ヒトの心に響くもの。 そう、感じられれば 大事なのは、「大気があるのか?」でなく、「心があるのか?」ではないかしら? 物理法則に反している、社会規範に反している。 TVで、ダレかが、そう言っていた。入門書には、そう書いてあった。 そんな 浅はかな知識と賢しらな判断で、他人(ひと)を批判するのは簡単だ。 けれど そんなものより、あたし自身の心は、少しでも成長したのだろうか? 年の瀬に、自戒を込めて そして、新たな年へ、懲りずに希望を託したい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年12月31日 11時13分27秒
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