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普段忙しく立ち働いている女将啓子さんが珍しく放心状態で玄関ホールのソファに腰掛けている。
玄関の戸がガラッと開いてカフェレッドの馴染み客の幸太郎さんが入ってきた。 「啓子ちゃん、どうしたんだよ。今日はレッドは休みなのかい」 「うん、なんとなく気乗りしなくってまだ開けてなかったのよ。いいわよ、中のドアからはいんなさいよ。今からお湯わかすから、ちょっと時間かかるけどね」 カフェレッドは紅柿荘の玄関脇にあって、地元の常連客がよく来る。 幸太郎さんは女将啓子さんの高校時代同級生だ。 「なんだい、いつも元気な啓子ちゃんがサ、なにか悩みでもあるのかい」 「当節、旅館業もきびしいのよお。うちはなんとかやってるんだけど、グランソレイユ山代さん、やめちゃったのよ。女将の幸子さんと私は大の仲良しだったからショックだわ」 「ああ、聞いたよ。負債額がちょっとデカすぎたよねえ」 コーヒーを出しながら、 「山代温泉女将の会のメンバーも櫛の歯が抜けるように減っていくし、昔からのお友達もなんだかんだで山代からいなくなるしさ、なんか寂しくなっちゃったのよ」 「わかるよ、その気持ち。いや、実は俺もね、今日は別れを言いに来たんだよ」 「ええ、やめてよお、冗談でしょ、ねえ、冗談だよね」 「子供たちも千葉や大阪、博多に住んでて、当分はこっちへ帰ってきそうにもない。貴美子が亡くなって最初のうちは良かったんだが、一人暮らしが段々と身にこたえるようになってきてさ。それに3番目の達夫が家を建てたいから少し資金援助してくれって言ってきたんだよ。で、先祖から受け継いできた宅地や畑を売って金に替えたんだよ。博多だとここより少しは暖かそうだし、残った金でケアハウスにでも入ってさ、孫の顔見ながら余生を過ごそうって思うんだよ」 「だって、余生だなんてそんな年じゃないじゃない。それは子供さんへの財産分与は仕方ないとしても、今更知らない土地へ移り住むなんて」 「ま、なんとかなるさ。屋敷や山林田畑の売買がトントン拍子で進んで不動産の登記や荷物の送り出しでバタバタしてたんだけど、明日引渡しが完了したら、小松から博多へ向かうよ」 紅柿荘カフェレッドを後にする幸太郎さんの背中に寂しさの影がさしていた。 地元加賀市の高校に続いて金沢市の大学を卒業、山代の地で祖先から受け継いだ土地を営々として守り続けた幸太郎さんが終(つい)の棲家を他国に求める。 温泉街をくまなく歩きまわり、気がついたら海岸に立っていた。 「え、オレ、何やってるんだ。未練がましくいじけてるなんてオレらしくないじゃないか。よし、おれのふるさと、山代温泉よ、さようならだ。父祖伝来の地を売り払って帰る故郷はなくなってしまったが、人間到るところ青山(せいざん)有りだ。オレだってまだ若い。どこに流れていこうが、行き着いた先で一花もふた花も咲かせてやろうじゃないか」 『そうよ、あなた、その意気よ。孫の顔見ながらご隠居さんだなんて幸太郎さんらしくないわ。私が初めて出会った頃のフレッシュでエネルギッシュな幸太郎さんにもどってよ、ね、あなた』 貴美子さんが後ろから語りかけたようだった。 「貴美子ーっ、見てろよー。オレはまだまだやってやるぞー」 日本海に沈む夕日がひときわ輝いて幸太郎さんを黄金の光で包んだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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