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すりいこおど-1970年代周辺の日本のフォーク&ロック

すりいこおど-1970年代周辺の日本のフォーク&ロック

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 J佐藤@ Re:KEEBOW「GIVE ME A KISS」(1975.11.21 ポリドール MR5069)(07/15) 私も高校の同級生から本盤を76年にもらい…
 石川Q右衛門@ Re:「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」(1970.3 ユーゲント)(03/02) 何度もこの記事を読んでますの。正解も出…
 ごむてつ@ Re:ノラ「ノラ VOL.1」(1973.5.10 アードヴァーク AV-3004)(11/10) デビューした頃、テレビ神奈川のヤングイ…

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2017.06.12
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カテゴリ:1975
「『オレンジ』というレーベルを作ろうときめて、それを三浦さんに話しに行って、毎月20万
くださいと、2年間。そのうちの10万円を1年分前借りして、それで帝塚山のビルに事務所を
作って、金森幸介や加川良のマネージメントもやり始めた」(阿部登)
「このようにして『オレンジ』は、大阪のフォークシンガーの大部分と、オリジナル・ザ・
ディランのレコーディングの時に集めた石田長生らのバック・ミュージシャンを改めて組織し、
大阪最強のプロダクション兼レコード制作レーベルとして発足した」('75年)
(「日本ロック大系(下)」1990.8.10 白夜書房刊)

この話が、三浦光紀がベルウッド在籍時なのか、フォノグラムに移籍した後かはわからない。
三浦光紀とスタッフ10数名がベルウッドから移籍するのに伴い、所属ミュージシャンたちも大きく
動いていくことになる。三浦光紀らは"ニューモーニング"という新レーベルを任された。
西岡恭蔵・大塚まさじ・あがた森魚・高田渡・中川五郎・南正人・山平和彦・及川恒平・いとう
たかおは、順次フォノグラムへ移籍。
細野晴臣、鈴木茂らティン・パン・アレーはクラウンのパナムレーベルへ。
大瀧詠一はシュガーベイブとエレックへ移籍、ナイアガラレーベル立ち上げ。
小室等は、吉田拓郎・井上陽水・泉谷しげるとレコード会社"フォーライフ"を設立。
といった具合だ。



ライブ「時は過ぎて」ザ・ディランII(1975.5.10 ベルウッド OFL-32)
写真は糸川燿史、デザインは森英二郎


オレンジレーベルは、手始めにザ・ディランIIの「HOBO'S コンサート」でのラストコンサート
の実況録音盤を作ったとされている。が、オレンジレーベルの記載がないし、録音はベルウッド
の山崎聖次と宮坂剛が担当し、ディレクターも三浦光紀名義になっているので、実のところは
わからない。
最後の方はバンド指向がピックアップされていたザ・ディランIIだが、このアルバムでは
大塚まさじと永井ようのデュオに絞って収録。一部末永博嗣がハーモニカで、長田和承がギター
で参加している。

いかに無二のデュオであったかを再認識させられる、ベストアルバム的な選曲で、どのテイクも
素晴しい。永井ようがハーモニーを聞かせるのはごく一部だが、彼のギターそのものが大塚まさじ
とのハーモニーなんだと、改めて感じることができる。
が、なくなっていくものへの儚さを感じずにはいられない。

A
ガムをかんで(大塚まさじ)
子供達の朝(西岡恭蔵)
茶色い帽子(大塚まさじ・西岡恭蔵)
時は過ぎて(大塚まさじ)
君住む街(西岡恭蔵)
B
プカプカ(西岡恭蔵)
淋しがりや(大塚まさじ)
その気になれば(KINTA・中川イサト)永井ようのボーカル
悲しみのセールスマン(大塚まさじ)
こんな月夜に(大塚まさじ)
サーカスにはピエロが(西岡恭蔵)




オレンジレーベルの名を冠した#1が、西岡恭蔵の「ろっかばいまいべいびい」だ。
とはいえ、東京録音で細野晴臣、鈴木茂が大きく関わっているので大阪色は薄いのだが。


さてこの「ろっかばいまいべいびい」のライナー裏に及川恒平がこんな文を寄せている。



『浅草の観音様に御参りに行った一人の男が、
帰りに銀座で中折れ帽子を買った。
のちに其の帽子は彼と共に、船に乗って外国旅行をすることになる。
彼とは恭蔵のおじいさん、今から四十年も前の話である。
田舎の物置から、そんなエピソードと一緒に其の帽子を見つけた時、
恭蔵のこのレコードは既に出来上がったのだろう。
私達が普段何気無くいだくあこがれを、恭蔵は広い世界と
長い時間の向こうに飛ばせてみせた。
中折れ帽子を小意気にかぶって恭蔵が歌っている。』

今回改めてこういう文章を読んで、驚いた。そうだったのか。
75年の40年前とすると1935年。このレコードのテーマとなっているのが、1930年代アメリカ。
偶然と言っていいのかどうかわからないが、このレコードを共に作った細野晴臣の祖父、正文は
1912年イギリスからニューヨークへ航海中に沈没したタイタニック号の唯一の日本人乗客だった。
(鉄道院の官僚だったため、研究員として乗船)

僕は、西岡恭蔵の船への執拗なまでのこだわりが、細野晴臣の影響によるものと勝手に
決め込んでいた。西岡恭蔵の祖父が何をしていた人でどこへ船旅に行ったのか、それは
ファミリーヒストリーに調べてもらわないとわからないが。
(そういえば細野晴臣サンはファミリーヒストリーに出ていましたね)


3月25日、鈴木茂の「バンドワゴン」発売。


「バンドワゴン」鈴木茂(1975.3.25 パナム GW-4011)
LA、SF録音。写真は内田功

鈴木茂(g)、佐藤博(k)、田中章弘(b)、林敏明(d)によるハックルバックも活動を開始。
鈴木茂、佐藤博、田中章弘は(細野晴臣も)大瀧詠一の新作「ナイアガラ・ムーン」、
鈴木茂、佐藤博は細野晴臣の新作「トロピカル・ダンディ」にも呼ばれていた。
そんなにわかにトップシーンに躍り出たハックルバックが、短い活動期間で唯一4人そろって
レコーディングに参加したのが、西岡恭蔵の「ろっかばいまいべいびい」だ。
さらにメンフィス帰りの石田長生も加わり、ハックルバック+THISという豪華メンツだ。



「ろっかばいまいべいびい」西岡恭蔵(1975.7 ニューモーニング FW-5001)
西岡恭蔵のセルフプロデュース。ディレクターは末永博嗣。録音は松本裕・宮坂剛。
アートディレクションは森喜久雄。イラスト+デザインは森英二郎。


Orange#1の名を入れたラベル


A面はラテンアレンジの「ジャマイカ・ラブ」から。
ハックルバック+石田長生のギターソロ、浜口茂外也のフルートが素晴しくスタイリッシュ。
全員によるコーラスも厚い。いきなり、どうした西岡恭蔵?かっこよすぎる!と言いたくなる。

『船長 進路は 北の一時
この大海原の はてるところ
西風にのったら 海路いそげ
このオンボロ船の 船足いっぱい』
(「ジャマイカ・ラブ」西岡恭蔵/作詞・作曲)


A-2「踊り子ルイーズ」は金子マリとのデュエットで、このアルバムの白眉といえる出来。
この頃、金子マリはチャーらと組んでいたスモーキー・メディスンが解散し、亀渕友香や
タンタンとコーラス活動をしている。3人のときは"LOVE"と名乗ることもあった。
タンタン(大空はるみ)はこの後、サディスティックスや高中正義、松岡直也&ウィシングと
いったかなりスタイリッシュな方面にボーカル参加していくが、金子マリと亀渕友香は
大阪方面で大きな足跡を残していくことになる。


『雨にほほ寄せ 君の名 きけば
あたい街の いかれた踊り子ルイーズ
陽気な口笛ヒューと 雨のリズムにあわせて吹いてよ
そうすりゃあたいも踊るわ 明日の朝まで

恋に恋する 浮気なこの街
誰が言ったか おまえ"さよなら通りのBlack Bird"
すり切れたドレスと口笛 雨の裏街クルリと咲けば
"さよなら通り"に恋の 虹がかかるよ

踊り子ルイーズ 踊り子ルイーズ
おまえ浮気な街の虹の雨
踊り子ルイーズ 踊り子ルイーズ
おまえ"さよなら通りのBlack Bird"』
(「踊り子ルイーズ」西岡恭蔵/作詞・作曲)

西岡恭蔵が他の曲と違い、ニュアンスを効かせた押えた歌唱で、ルイーズ役の金子マリを
引き立てている。押え気味のバックも素晴しい。


A-3「ファンキー・ドール」は聞き手(僕)が驚いてしまうほど、かっこいい。

『雨のHighwayを 140キロで飛ばせば
君への想い この胸にひろがる

青い街灯り 冬の雨にかすむと
ちぢれ髪に 夢からませ
眠る君は ファンキー・ドール

ぬれた口唇に キスさせて
遠い夢に踊る ファンキー・ドール
黒いひとみに 僕をうつして
ぜんまい仕掛けで踊るファンキー・ドール』
(「ファンキー・ドール」西岡恭蔵/作詞・作曲)


ハックルバックの演奏も、金子マリのコーラスも、おそろしくクールでスタイリッシュ。
クールでいてソウル。いったいどうしたのか!矢沢永吉が歌ってもおかしくない。

というわけでこの時期キャロルの解散が決って、ソロでデビューに向けてデモテープを
作っていた矢沢永吉から作詞の依頼がくることになる。それは後程。


A-4は鈴木茂のスライドギターが冴え渡る「めりけんジョージ」。

西岡恭蔵の曲作りが、古き良きアメリカン・ポップスの日本的解釈といったようなあたりを
うまくこなしている。前作までは感じられた言葉あってのメロディ、という感じがまったく
しない。センテンスも短くてスタイリッシュだ。
このあたりは、もしかしたら奥さんのKUROの助言があったのかも知れない。
なにしろ歌詞が男っぽいのだ。
これは個人的な問題かも知れないが、細野晴臣や大瀧詠一が研究熱心なあまり、マニアックな
境地に行ってしまって僕など置いてけぼり・・みたいなところがあるのだ。が、西岡恭蔵は
程よい加減で心地いい。


A-5「あこがれのニュー・オルリンズ」も然りで、日本人が聞いたアメリカ音楽の解釈が、
例えば和製ポッポスの先駆けである笠置シヅ子の「買い物ブギー」(1950年・服部良一/
作詞・作曲)を聞いているのと同様に心地いい。

古き良きアメリカへの憧れ、愛、が素直に表現されたのがA面ではないかと思う。


B面は一転して細野晴臣とのデュオ。
同時期、細野晴臣は自作「トロピカル・ダンディ」と大瀧詠一「ナイアガラ・ムーン」で、
遠くへ遠くへと行きかけていた。

ここでは、シンプルにやろうよ、ということになったのか。
B-1は細野晴臣のカバーでレコードタイトル曲の「ろっかばいまいべいびい」。
西岡恭蔵が前作までとはまったく違う柔らかな歌声を聞かせ、細野晴臣はウッドベースで
寄り添う。小さなジャズの趣だ。

B-2「今宵は君と」、細野晴臣のカバー「3時の子守唄」とシンプルに上品にまとめられて
いる。

B-4「ピエロと少年」は、HOBO'Sコンサートと同様に、西岡恭蔵の弾き語り。
これは個人的な意見になるが、74年のライブ盤のほうが出色の出来栄え。
ライブ盤の発売が76年なので仕方ないのだが、スタジオで録るよりライブ向きなのだろう。

ラストは細野晴臣のピアノ+「あこがれのニュー・オルリンズ」でも参加したデキシー・
キングスの石川順三のクラリネット+西岡恭蔵の静かな歌声の子守唄「夢の時計台」。


「男は強くなければ生きていけない 優しくなければ生きていく資格がない」
そんな流行り言葉を思い出させるような、懐の深さを感じさせるアルバムだ。





こうしてアメリカ愛・憧れをひとつのカタチにしていた頃、細野晴臣は同時期に発売された
「トロピカル・ダンディ」にこう書いている。

『今年になって僕の興味は北アメリカを離れて、カリブの島々とそれを囲む海、そして、
向こうにかすむ大陸と港、といった風景に集中してしまいました。カリブの海は、キューバ、
ドミニカ、ハイチ、ヴァージン諸島、そして憧れのジャマイカ、一番ピッタリくるトリニダド・
トバゴから成り立っていて、その島々にはフランス、スペイン、イギリスといったヨーロッパの
雰囲気が漂い、ニューオリンズの港や、ブラジルの大陸へと続いているのです。
(中略)
僕の好きな港は上海、香港、横浜、ニューオリンズであります。特に上海とニューオリンズに
憧れている次第で、その経路は上海から東京では駄目であり、上海からフランス、そしてスペイン
を通って、西インド諸島に運ばれ、それがニューオリンズ港に陸上げされ、そこではじめて
東京に持って来る、という手順をふんでくれないと満足できないのです。この長い旅をし終った
音楽は、途中で出会ったありとあらゆるエッセンスを含んでいて、とってもおいしいのだ。』

細野晴臣と大瀧詠一はそれぞれの手法で、探求者となっていった。
鈴木茂はこの状況について、
『はっぴいえんどのラストアルバムで共演してから、細野さんとぼくはヴァン・ダイク・
パークスのアルバム「ディスカバー・アメリカ」にハマって、ロックというよりも古き良き
アメリカ音楽の歴史に興味を持った時期があるんだ。そうやって音楽の旅が始まった。
(中略)
ホーギー・カーマイケルならぼくは普通の曲を聴いていたんだけど、細野さんは「香港
ブルース」とかアメリカ人から見た東洋にハマったみたいだった。これはこれでライ・クーダー
みたいで面白い。でもキリがなくて、どんどんロックとの共通項がなくなっていく。
ぼくはなんとか、フランク・シナトラとかまだポップスの範疇で踏みとどまったんだけどね。
さらに細野さんはマーティン・デニーとかを通ってカリブ海沿岸の南国エキゾチック路線に
行ってしまった。それが細野さんのソロアルバム「トロピカル・ダンディ」に繋がって、
その次作「泰安洋行」になるとアジアン・テイストも入ってきた。
レコーディング中に、細野さんが「このブリッジには中華風のフレーズを入れて欲しい」
なんて言い出すものだから、林(立夫)と二人で顔を見合わせて「どういうふうにする?」なんて
悩んだのを覚えている。細野さんが最もロックから離れてぶっ飛んでた時期じゃないかな。』
(「鈴木茂のワインディング・ロード」2016年3月25日 リットーミュージック刊)



「トロピカル・ダンディ」細野晴臣(1975.6.25 パナム GW-4012)
細野晴臣セルフプロデュース。デザインは八木康夫



「トロピカル・ダンディ」のジャケ裏


「ろっかばいまいべいびい」のジャケ裏。
西岡恭蔵がいかに細野晴臣に傾倒しているかが伺える



また1970年にデュオ"小さなオルフェ"でデビュー以来、"アテンションプリーズ"改め
"都会の村人"、"IMOバンド"、と活動を続けてきた金森幸介が75年2月ソロデビュー。
オリジナル・ザ・ディランに参加以降、ザ・ディラン周辺をサポートしてきた長田和承が、
バンド"レイジー・ヒップ"を結成し、金森幸介のバックバンドとして活動を始めている。



「箱船は去って」金森幸介(1975.2.25 ビクター SF-1050)
金森幸介セルフプロデュース。デザインは森喜久雄+森英二郎。
中川イサト・西岡たかし・佐藤博・石田長生・田中章弘・林敏明・豊田勇造・長野たかし・
永井よう・有山淳司・末永博嗣・中川五郎・いとうたかおら大阪人脈総出演。
さらに細野晴臣・林立夫も参加。特に佐藤博はほぼ全曲に参加。素晴しき名盤。





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Last updated  2017.06.12 09:30:03
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