熊野 干し芋の思い出
子供の頃(45年位前)お小遣いをもらうため干し芋つくりのお手伝いをよくしていました干し芋と子供の頃は言っていなく、金山では「きりめ」と言っていました台所のかまど(金山ではくど)でイモをゆでて、母親が箸で皮をむき等間隔に切り、父親が竹で作った網(1畳くらいの大きさ)に私が干すのですイモの色が変わってきて、食べごろになるの内緒で食べたものです出来上がったキリメ(干し芋)は、新宮市から来ていた行商の叔母さんに託け新宮市で売って来ていただき、数日後にお金をもらっていましたその中からお小遣いをもらっていました当時金山にも店がありましたが、自転車で毎日来る魚の行商おじさんも居られました行商の叔母さんを、新宮のおばさんと呼んで毎日楽しみにしていました祖父が、バナナパンを買ってくれる事があったからです新宮のおばさんは、新宮から神志山駅、そして神木行のバスで山田自転車前の停留所でおり、そこから一軒一軒歩き、乾物、缶詰、ソーセージ等を売り歩いていました、今思うと大変な重労働だったと思いますもう無くなられていると思いますが、生きていたら110歳以上でしょうね魚のおじさんも同じくらいの年だったと思います当時は、干物、ミンチ、クジラの肉が多かったですいまはクジラの肉、貴重ですね 昔はクジラの肉が安かったのです