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カテゴリ:日本の城と城下町
この1週間で私が最も印象に残ったTV番組と言えば、NHK「その時歴史が動いた」。テーマは、「戦国北条、百年王国の夢」である。北条早雲の小田原入城に始まり、豊臣秀吉の小田原征伐に至る、北条氏(後北条)五代百年の歴史である。 秀吉の小田原征伐は、全国統一の総仕上げとしての、最後の戦(いくさ)となるが、これにより北条氏は滅び、百年の歴史を閉じる。確かに、北条氏による関東八州(関八州)の支配は、そこに終わるのだが、実は、小田原北条氏の血は、絶えることなく、現在まで受け継がれていたという事実に私は驚いたのである。 その北条氏の居城、城下町小田原のシンボルでもある小田原城は、城好きの私の中でも、屈指の名城の一つである。学生時代に城のプラモデルを作って部屋に飾っていたが、小田原城もそのコレクションの一つだった。上京して、すぐに小田原城の天守閣に登るが、東海道新幹線もそのすぐ真下を通るので、以後、何度となく目にする。 城の規模は大きい。天守閣の外見は、3層(4階)であるが、実に堂々としている。3層にしては、大型で石垣を含めると約40mの高さにもなる。私もこれまで多くの城を見てきたが、日本にある3、4層の天守閣で、これほどの大きさの天守は小田原城の他には無いと思う。どちらかというと5層規模の天守閣と肩を並べるほどの大きさでもある。 現在の小田原城址の広さといえば、本丸と二の丸およびそれを取り囲む堀といったところである。しかし、秀吉の小田原征伐のころには、小田原自体が城郭都市と化していたようである。中世ヨーロッパでも見られる、城壁に囲まれた都市とも共通するところがある。確かに、小田原の町を歩くと城址公園の外側にもその遺構を見ることが出来る。 戦国武将、北条早雲が小田原の地を治めたのは、1495年、まだ戦国の世である。そこから、北条氏は、3代目氏康の代で関八州を治める。そして小田原は、関東の中心として発展する。氏康の時代には、上杉謙信、武田信玄の攻撃も受けるが、小田原城は持ちこたえる。このあたりの両軍の配置図などの資料は、城の中に展示されている。 そして、5代氏直の時代、城下町が城郭と化した小田原は、秀吉の包囲にも耐える。敵の侵入を防ぐために城郭に廻らせた、障子堀という堀が、番組の中で紹介されていたが、深い堀(空堀か?)にワッフルのように堤をつくっているようで印象的だった。そういう強固な防備にも関わらず、同盟と目されていた家康、伊達政宗も秀吉につき、降伏を決意する。それも、無血開城であった。 徹底した領民愛護の精神を貫いてきた北条の治世、税については四公六民(民の取り分が6割)という政策を打ち出し、領民から慕われたとされている。北条早雲の晩年より使われているという北条家の印判には、「禄寿応隠(ろくじゅおういん)」という文字があり、「人民よ、皆平和でくらそう」という意味があるそうである。北条五代に亘って、領民に対する想いを忘れなかったことが、氏直に無血開城を決意させたという。自らの命と引き替えに、領民の命を守ることを条件としたとのことである。 小田原の無血開城の後、5代氏直は、紀伊国の高野山に幽閉される。しかし、驚くことには、その後、氏直は許され1万石を与えられ家は維持されるという。やがて氏直は亡くなるが、氏直の叔父の氏規が、河内国狭山に所領を与えられ、幕末まで河内狭山藩1万石として引き継がれる。そして、小田原北条氏の領民を大切にする想いも、受け継がれていくという。 北条五代祭りというのが、毎年5月の連休中にある。これは、小田原の発展の礎を作った、北条五代百年の善政を慕ってのお祭りだという。私も2004年に行ったが、初代北条早雲から、五代氏直に至るまで、それぞれ出陣式があり城下に出陣していく光景が印象的だった。 北条氏の「三つ鱗」の家紋の旗をたなびかせ出陣していく光景に、つい胸が熱くなる自分に、ちょっと感情移入し過ぎではないか、と恥ずかしくなっていたのを思い出す。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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