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テーマ:城跡めぐり(1238)
カテゴリ:城跡と史跡(山梨・長野編)
山梨県甲府市と言えば、やはりこの人でしょうか。
甲府駅前にある武田信玄像。 (武田信玄はもっと痩せていたようで、これは武田信玄ではないとも言われています) 甲府駅から北に真っ直ぐ約2kmにわたって延びる道が「武田通り」で、その先に武田信玄の本拠地「躑躅ヶ崎館」がありました。 躑躅ヶ崎館(武田神社)から見た武田通り。 通りの名前も「武田」ならば地名も「武田」、途中には「武田~」がやたらと目につきます。 例えばバス停の名前は「武田三丁目(武田歯科医院前)」、とこんな感じです。 全国の武田さんは、甲府に来て悪い気はしないことでしょう。 当時は武田通りの途中には重臣たちの屋敷が並んでおり、まさにここが当時最強の甲州武田軍の拠点でもありました。 今となっては当時の面影はありませんが、屋敷跡の碑がわずかに往時を偲ばせます。 武田典厩信繁の屋敷跡。 武田信玄の弟で、武将のみならず文人としても優れていました。 川中島の戦いで討死しましたが、信玄は信繁の死体を抱いて号泣し、上杉謙信もその死を惜しんだと言われています。 馬場美濃守信春の屋敷跡。 築城の名手で、山本勘助から武田流築城術を受け継ぎました。 設楽原(長篠)の戦いでは、勝頼を逃すために殿(しんがり)を努め、奮戦もむなしく討死を遂げています。 板垣駿河守信方の屋敷跡。 武田信玄の筆頭家老で、板垣退助の祖先だそうです。 武田信玄が諏訪頼重を滅ぼした後は、上原城の城代となり、信濃攻略で主導的地位をしめました。 武田信玄が村上義清に敗北した、「上田原の戦い」で討死しています。 穴山玄蕃頭信君の屋敷跡。 武田信玄の甥に当たり、本能寺の変では徳川家康と共に堺を脱出しますが、途中で討たれたため、武田氏再興の夢を果たすことができませんでした。 高坂弾正昌信の屋敷跡 「甲陽軍艦」の原本を作ったとされています。 美男子であったため、武田信玄の衆道の相手でもあったそうです。 その他にも名将たちの屋敷跡が並んでおり、ここが当時最強と言われた甲州軍団の本拠地でした。 当時最強と言われた甲州武田軍ですが、「なんでこの人たちはあんなに強かったんだろう」と、未だに疑問です。 織田信長が恐れ続け、徳川家康が見習った甲州武田軍、その強さの秘密を知りたいものです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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