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テーマ:城跡めぐり(1238)
カテゴリ:城跡と史跡(山梨・長野編)
武田通りを北に向った先には躑躅ヶ崎(つつじがさき)館の跡があり、ここが武田信虎・信玄・勝頼の武田氏の居城でありました。
現在は「武田神社」となっており、こちらの方が一般的な呼び方です。 武田神社拝殿 躑躅ヶ崎館は、周囲に一重の堀を巡らせただけのシンプルな造りで、戦国武将の居城とは思えない簡素さです。 躑躅ヶ崎館の古図(北側から見たところ) 躑躅ヶ崎館には何度か来たことがあるのですが、前回は雑然としていた木々がすっかり紅葉していました。 南側の外堀 西曲輪との間の内堀 ここまで見事だとは思っていなかったので、「城の遺構がどうのこうの」などと言うのはやめました。 躑躅ヶ崎館の北側、武田神社の裏手には「お屋形さまの散歩道」と呼ばれる道が続いています。 お屋形様の散歩道 躑躅ヶ崎館の北側には、「味噌曲輪」や「御隠居曲輪」などの曲輪があったのですが、現在では畑に変わっていました。 味噌曲輪の跡。 詰め城である要害山が見えています。 御隠居曲輪の跡。 いずれも本曲輪同様、周囲に一重の堀を巡らせただけの造りでした。 また南側の住宅地の中には、「梅翁曲輪」の外堀も一部が残っています。 躑躅ヶ崎館は、1519年に武田信玄の父である武田信虎によって築かれました。 以後武田信玄・勝頼と武田氏3代にわたって本拠地となっています。 「人は城 人は石垣 人は堀」と言われるように、武田信玄は甲斐の国内に城を築きませんでした。 (そもそも信玄時代の甲斐に攻め込もうなんて無謀なことを考える人はいなかったでしょうが・・・) 仮に躑躅ヶ崎館に攻め込んだとしても、内藤昌豊・山県昌景・馬場信春などの音に聞こえた勇将たちが、黙って通してはくれなかったことでしょう。 勝頼の代になると、設楽原(長篠)の戦いで織田信長に大敗を喫し、家臣の離反を招いていきました。 武田勝頼は新府城を新たに築城し、防御の手薄な躑躅ヶ崎から本拠地を移しています。 やはり「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」なのでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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