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テーマ:城跡めぐり(1238)
カテゴリ:城跡と史跡(山梨・長野編)
信州松本は北アルプス登山やスキーで何度か来たことはあったのですが、松本城を訪れるのは初めてです。
松本市内の通りの名前には旧城下町の名残があり、その1つである「大名通り」が松本城へ続いています。 大名通り途中にある大手門跡。 当時は櫓門と枡形があったようです。 松本城は二重の水堀を巡らせただけの、いたってシンプルな縄張りでした。 江戸時代の縄張り図 外堀。 ここだけは石垣ではなく土塁でした。 ちょうど北東の隅にあたるのですが、隅櫓が建っていたような跡があります。 二の丸の虎口にある「太鼓門」(復元)の表門 太鼓門の枡形と櫓門 太鼓門は江戸時代の古図が残っていたようで、細部も外観復元されていました。 太鼓門枡形内部の土塀。狭間、雁木と武者走りが復元されています。 さらには本丸虎口の枡形と櫓門も復元されていました。 本丸虎口「黒門」の表門(高麗門形式、復元) 「黒門」の櫓門。(ここで入場料を払います) そして本丸には、現存する天守が並んでいます。 左に辰巳付櫓と月見櫓、右に乾小天守を従えた天守。 天守が現存する城は12城しかなく、松本城はその12城の1つです。 その現存12天守の中でも、天守が国宝に指定されているは、姫路・犬山・彦根・松本の4城だけです。 国宝4天守のうち、松本城だけは訪れたことがなかったので、これで国宝天守は全て訪れたことになりました。(めでたし、めでたし) 天守の外壁は黒い下見板張りになっており、荘厳な重厚感があります。 それでも武骨な印象はなく、どことなく優雅な感じがします。 ところで、天守や櫓は不思議な建物で、見る角度によっては全く違ったものに見えたりします。 お気付きかも知れませんが、当ブログで天守や櫓の写真は、斜めから撮ったものが大半です。 天守や櫓を見る角度は、斜めが最も美しいと思っていますので… というわけで松本城の天守も斜めから見ると、こんな感じです。 さらに別の角度から いかがでしょうか、正面とはまた違って見えないでしょうか。 さらに、これまで数多くの城郭を見てきた経験から言うと、松本城はとても平和な感じがします。 天守を一周した後は、いよいよ天守の中へと入って行きました。 天守内部も創建当時のままですが、現存天守の階段は梯子のように急なのが困ったところです。 (あえてそうしてあるのでしょうが…) 外から見ると5層の天守ですが、実は内部は6階建でした。(これもよくあることです) そして最上階の6階からは、北アルプスの山並みが広がっていました。 蝶ヶ岳・常念岳・大天井岳と連なる「北アルプス銀座」の尾根。 標高2,600~2,800mくらいの尾根が続いており、槍や穂高などの他の北アルプスの山々に比べると、やや低い位置にあります。 探検部時代にテント泊でこの尾根を縦走したのですが、日照り続きの水不足のために水がなくなってしまい、途中で大天井岳から降りてきた苦い思い出があります。 もう一度あの北アルプスに登ることを胸に誓って、天守を後にして行きました。 松本城は、戦国時代の初めに信濃の守護小笠原氏が造った深志城が始まりです。 その後は武田信玄が小笠原長時を追い出して、信濃支配の拠点としています。 1582年に本能寺の変が起こると、そのどさくさに紛れて小笠原貞慶が深志城を回復し、松本城と改名しました。 さらには1590年に豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼした後、徳川家康の関東移封に従って、小笠原氏も下総へと移っています。 そしてその後に松本城に入って来たのが、石川数正です。 石川数正・康長の父子は城の改修と城下町の整備を行い、現在の天守を創建しました。 石川数正と言えば、徳川家康から出奔して豊臣秀吉に寝返ったことで有名です。 もしもずっと徳川家康に従っていたら、間違いなく四天王を凌ぐ存在になっていたことでしょう。 山岡荘八の「徳川家康」では、対秀吉の開戦を主張する家臣を諌めるため、石川数正があえて悪役を買って出奔したようになっています。 果たして真相はいかがなものでしょうか。 豊臣秀吉に寝返った後の石川数正は、大した功績を残していません。 それでもこの天守を見る限りでは、平和を愛する人だったのかも知れません。 そして松本城と言えば、亡き「山のてっぺんさん」が愛したお城でもあります。 私もようやく信州松本城に来ることができました。 (財)日本城郭協会「日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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