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テーマ:城跡めぐり(1238)
カテゴリ:城跡と史跡(山梨・長野編)
信州松代城と聞いても「?」って感じでしょうが、武田信玄の海津城の方がまだ有名かも知れません。
しかしながら目に入るのは明らかに江戸時代の近世城郭で、戦国時代の面影は残っていませんでした。 本丸虎口にある表門 (どう見ても武田信玄ではない・・・) 本丸の虎口は石垣で復元され、櫓門が建っていました。 太鼓門(櫓門形式、復元) さらに本丸の搦め手方向にも門が復元されています。 本丸北側の「不明門(あかずのもん)」 埋(うずみ)門形式でもあり、名前からしても明らかに搦め手門なのですが、搦め手にしては珍しく櫓門が建っていました。 本丸内には櫓台(天守台?)の石垣が残っており、どう見ても江戸時代の近世城郭でした。 天守台にしては小さいし、位置もちょっとおかしい… 物見櫓が建っていたのでしょうか。 それでもよくよく見ていくと、武田流築城術の名残がありました。 二の丸の土塁。 この丸い形の縄張こそが、武田流築城術です。 武田流「三日月堀」の跡でしょうか。 戦国城郭の名残を見つけて、ちょっとうれしくなりました。 松代城(海津城)は、1560年に武田信玄が、越後の上杉謙信に備える目的で、山本勘助に命じて築城しました。 八幡原(川中島)は海津城の目の前にあり、武田・上杉両軍の総力戦となった第4次川中島の戦いの舞台でもあります。 (この時上杉謙信が本陣を置いた妻女山と合わせて、川中島の合戦については後日ご紹介します) 武田氏が滅亡し、関ヶ原の戦いが終わった後には、森忠政(蘭丸の兄)が入城して、土塁を石垣に築きなおしています。 江戸時代に入った1622年には、真田信之(信幸、幸村の兄)が城主となり、明治維新まで真田氏の居城となっていました。 (財)日本城郭協会「日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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