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パクス・ジャポニカ Vol.2

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2009/04/26
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テーマ:史跡めぐり(508)
「川中島の戦い」は第1次から第5次まで行われたとされますが、一般に「川中島の戦い」と言えば、その中でも最も激戦となった第4次川中島の戦いのことです。


1561年8月、上杉謙信は13,000の本隊を率いて、川中島の南にある妻女山に着陣しました。
川中島妻女山陣.JPG
妻女山の上杉謙信本陣跡。

川中島妻女山より.JPG
妻女山から見た川中島(八幡原)の全景。


一方で海津城(松代城)を守る高坂弾正からの援軍要請を受けた武田信玄は、20,000の大軍で海津城に入城しました。

さらに武田信玄は、山本勘助・馬場信春の献策によって、全軍を別働隊12,000と本隊8,000の二手に分けました。
別働隊が妻女山の背後から攻め込み、上杉謙信の本隊を妻女山から突き出して、残り8,000の武田信玄本隊が八幡原で迎え撃つ作戦、いわゆる「啄木鳥戦法」です。


武田信玄が本陣を置いた場所には八幡神社が建っていることから、八幡原と呼ばれていました。
現在八幡神社の境内周辺は、八幡原史跡公園として整備されています。
川中島八幡社.JPG
八幡社。
第4次川中島の戦いで焼失しましたが、後に高坂弾正によって再建されています。


しかしながら上杉謙信は、海津城から上がる炊爨の煙がいつもより多いことに気付き、この啄木鳥戦法を見破りました。
川中島妻女山より海津城方向.JPG
妻女山から見た海津城の方向


上杉謙信は夜中のうちに妻女山を下り、逆に八幡平で武田信玄の本隊を迎撃する体制をとりました。

一方、武田信玄の別働隊は妻女山に攻め込んだものの、すでに上杉謙信本隊の姿はなく、一方の武田信玄本隊は、霧が晴れた瞬間にいるはずのない上杉謙信本隊と遭遇する結果となりました。

武田信玄は「鶴翼」の陣形をとっていましたが、上杉謙信の「車懸」の陣形の前に劣勢となり、武田信繁(典厩)や山本勘助を失う結果となりました。
川中島妻女山合戦図.JPG
川中島合戦図(妻女山)


さらにはこの乱戦の最中で武田信玄の本陣が手薄となった時、上杉謙信は旗本数騎だけを引き連れて、武田信玄の本陣を急襲しました。

川中島三太刀七太刀の碑.JPG
八幡原史跡公園に建つ三太刀七太刀の碑

上杉謙信は馬上から武田信玄に斬りかかり、武田信玄も一太刀目は軍配で受け止めたものの、二太刀目で腕に傷を負い、三太刀目で肩に傷を負ったとされています。
後に武田信玄が軍配を調べたところ、刀傷が七ヵ所あったことから、「三太刀七太刀の跡」と呼ばれています。

川中島三太刀七太刀像2.JPG
上杉謙信と武田信玄の像(八幡原史跡公園)

大将が単騎で本陣に突入するなんて、にわかには信じ難い話ですが、自分を毘沙門天の化身だと思い込んでいる人ならば、やりかねないような気もします。

本陣に斬り込んで来た上杉謙信に対し、原大隈という人が槍を繰り出しましたが、あと少しで上杉謙信を取り逃がしてしまいました。
無念でならない原大隈は、傍らにあった石を槍で突き通したと言われ、その石は「執念石」として今も残っています。
川中島執念の石.JPG
執念石(八幡原史跡公園)


この戦いで武田軍4,000、上杉軍も3,000の戦死者を出し、戦国時代でも稀にみる大激戦が展開されました。

武田軍の高坂弾正は首塚を建て、敵味方の区別なく、戦死者を手厚く葬ったそうです。
その首塚の1つが、八幡原の史跡公園に残っていました。
川中島首塚.JPG

これに感銘を受けた上杉謙信は、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と、直ちに塩を送ったそうです。

これほどの総力戦を展開しながら、この余裕は一体何なのでしょう





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最終更新日  2018/03/19 09:35:07 AM
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