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パクス・ジャポニカ Vol.2

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2013/07/22
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テーマ:史跡めぐり(508)
大菩薩嶺の周回ルートから再び上日川峠に帰って来た時、予想外に到着が早かったので、もう少し活動してみることにしました。

行きで甲斐大和駅から上日川峠までのバスに乗っている時、地名に「天目」とあるのが気になっていました。
さらには恵林寺で見たのと同じ、紺地に金文字で書かれた孫子「兵法」の一節、すなわち風林火山の旗印も沿道にあったりしました。

「ここが天目山なのか」と、上日川峠の帰りは途中でバスを降り、甲斐大和駅まで歩いて探索してみることにしました。


天目山日川渓谷 (500x375).jpg
日川渓谷レジャーセンター
本当は景徳院の前でバスを降りようと思っていたのですが、間違えて約2kmも手前で降りてしまいました。


上日川峠からはかなりの標高差を下っていたものの、それでも標高は1,000m近くあるため、山あいを吹き渡る風が涼快でした。

天目山日川渓谷 (2) (500x375).jpg

日川渓谷沿いを歩いていると、せせらぎに交じってカジカの鳴き声も聞こえて来たりして、ずっとこのまま歩いていたいと思ったほどです。
(ところで、この辺りのカジカの鳴き声は西日本に比べて音程が低いように思ったのですが、気のせいでしょうか)


それでもこの日川渓谷が甲斐武田氏の最期の地、道の片隅には当時のことを物語る碑が、ひっそりと建っていました。
天目山土屋惣蔵片手切 (500x375).jpg
土屋惣蔵片手切の碑
わずかな人数の武田勝頼主従が進退きわまった時、家臣の土屋惣蔵昌恒は崖道に身を隠し、片手で藤蔓につかまったまま、もう片手で敵兵を防いだとされています。
(ところでこの土屋昌恒ですが、長篠の戦いで織田信長陣の馬防柵までとりついて討死した土屋昌次の兄弟にあたります)


その土屋昌恒の奮戦によって一旦は田野の郷に下った武田勝頼でしたが、最後に力尽きて自刃した場所が景徳院のある場所でした。

天目山景徳院総門 (500x375).jpg
景徳院総門

景徳院の総門から参道を行くと、武田勝頼が自害したとされる自害石や墓所などがありました。

天目山景徳院武田勝頼墓所 (3) (500x375).jpg
武田勝頼・信勝父子と北条夫人の墓所

天目山景徳院武田勝頼墓所 (4) (500x375).jpg
没頭地蔵
地元の人たちによって遺体が埋葬されていた場所です

天目山景徳院北条夫人辞世 (500x375).jpg
北条夫人(小田原北条氏康の娘で、北条氏政の妹)の辞世の句
「黒髪の 乱れたる世ぞ 果てしなき 思いに消ゆる 露の玉の緒」


景徳院を建立したのは徳川家康、1583年に武田勝頼がここで自刃したすぐ後に、勝頼と家臣の菩提を弔うために建立されました。
天目山景徳院山門 (2) (500x375).jpg
景徳院山門

武田氏を滅亡に追い込んだのは織田信長・徳川家康の連合軍でしたが、その後の徳川家康は景徳院を建立したのみならず、武田氏の遺臣を積極的に登用したりと、寛大な統治を行っています。

徳川家康は軍制も旧武田氏のものを採用し、旧武田軍を井伊直政の配下に置いたことから、武田の赤備えも「井伊の赤備え」として復活しています。

天目山景徳院本堂 (500x375).jpg
景徳院本堂と武田菱


長篠の戦いで敗れた後、織田信長・徳川家康の連合軍による侵攻の前に、武田勝頼は甲斐源氏の本拠地であった躑躅ヶ崎の館を放棄し、1581年に新たに築いた新府城へ本拠地を移しました。

織田・徳川連合軍の攻勢と家臣の離反が相次ぐ中、1583年に武田勝頼はその新府城も放棄し、目指した先が家臣小山田信茂のいる岩殿城でした。
しかしながら小山田信茂にも背かれ、ついにはこの天目山に追い詰められた時、勝頼の主従はわずか40~50人だったと言います。

天目山鳥居畑古戦場碑 (500x375).jpg
鳥居畑の古戦場碑


武田信玄の時代には最強とうたわれ、織田信長も必死に懐柔していた甲斐源氏でしたが、最後は住むところさえも失って、この深い山あいを彷徨うことになるとは、誰も想像できなかったことでしょう。
天目山日川渓谷 (1) (500x375).jpg
この深い山々の国を、戦国時代最強の国にしたのも武田氏でした。

天目山武田勝頼像 (500x375).jpg
甲斐大和駅前にある武田勝頼像





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最終更新日  2013/07/26 03:25:54 PM
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