憲法を変えたい自民党の「語るに落ちた」本音
このところのブログエントリーネタは2回に1回以上が「憲法」のことだ。 最近の国会議員連中の「強権」的な発言に「業を煮やしている」からなのだが、私の思いと同じくする人が多いからなのか、最近のアベ首相と自民党に関する報道では「96条先行改正」をことさら強調しなくなった。 言うまでもないことだが、これは別に彼らがあきらめたのではなくて、事実として私が確認できるのは、単に報道が取り上げていないということだけ、だ。 もしかすると、彼らも「ほとぼりが冷める」のを期待してだんまりを決め込んでいるだけなのかもしれない。 いずれにしても、彼らはあきらめてなんかいない。じっと待っているだけ、だ。 自民党憲法改正案は、何回もこのブログでも書いたように、個人の権利の抑制があまりに目に余るのだが、自民党の連中はむしろ「個人の権利の主張が強すぎる」と思っている輩が多いのだ。 だから「自助」だとか「家族」だとか「公益」とか「公の秩序」なんて言葉を入れたがるのだろう。 そもそも「自助」とか「家族」なんて言葉は憲法に馴染むのか。 「公益」とか「公の秩序」とはだれが「公」で何が「益」や「秩序」だと決めるのか。 結局、権力を握る人間が、簡単に好き勝手ができるようにするための文言でしかない。 「個人の権利の主張が強い」ことは「悪いこと」だという価値観を振り回す「自由」は担保して、理不尽を感じる自由すら奪おうとしているのだ。 こういった指摘には自民党の連中は「そんなことをするわけがない。ありえない」なんて全く保証のない発言をしている。であるならばなぜ権利抑制の条文を入れたり、「公益」「公の秩序」なんて文言を使うのか。 規制をかける意図があるから、以外に何があるのか。語るに落ちた、ってヤツだ。 だいたい自民党の主張は始めから「語るに落ちて」いる。 「日本国憲法は改正のハードルが高すぎる」と96条の先行改正を言うが、そりゃ憲法に縛られる権力の側からすれば替えたいし、そのハードルも低くしたいのだろうが、アベ首相が大好きなアメリカ合衆国など諸外国に比べて高すぎることも無いし、96条があるから「憲法が国民から乖離」しているということもない。 むしろ、憲法に縛られる権力を握っている側が替えたがっているという事実も、国民の間から憲法改正の必要性を訴える声が盛り上がらないという事実も、我が日本国憲法はきちんと機能していることの証明だ、と言える。 となると、自民党連中の本命はやはり「9条」なのだろう。 このことは長くなるのでまたあらためて書きます。 そうそう、国会における改憲勢力といえば、もう一つ「維新」てなところもあったけど、ここは論評にも値しない、ね。 最初からずっとダメだと思っていましたけど、ね。