コップの水
思い立って、近くの里山を4時間ほど歩いた。追分梅林を過ぎてしばらく歩いたころ、ある集落を通りかかった。道の両側に広がる、樹木がそこだけポッカリと空いているような場所に、びっしりと墓石が立ち並んでいた。そこは、山腹のかなり急な斜面を利用しているので、上から下に、段々になっていた。山の上側をふと見上げると、そんな墓地の一番はしっこに、卒塔婆が一本立っており、供えた花が、枯れているのが見えた。それほど昔のものではない。読むともなく、表に書かれた文字を追ってみて、はっとした。10歳のお子さんの墓であった。見てはいけないものを見たような気がして、それからは、下を見て歩いた。私にできることは、そのお子さんのご冥福を祈ることだけだ。しかし、しばらくは、親御さんの悲しみがこちらに伝わってくるようで、息苦しさを感じた。もちろん、私は自分の息子を亡くしたような経験はない。これからも、そんな経験はしたくはない。そんな経験はしたくないというところから、私の苦しみは、来ている。今も感じているその息苦しさを、これから、晴らしていかねばと思う。胸のコップの中に、澄んだ水を一滴づつためていけば、その苦しみも晴れると思う。「私は、幸せだ。私は、ついてる。やってやれないことはない、やらずにできるわけがない」。そう、唱えてみると、不思議と心が軽くなる。澄んだ水が一滴づつ溜まっていく。仏の教えは、生きることにあるから、コップの水が澄むことを、死者も望んでいるだろう。