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カテゴリ:政治
絶大な権勢を誇る吉田茂首相に敢然と立ち向かい、盟友鳩山一郎の政権奪取を強力にサポートした三木武吉(みき・ぶきち、1884-1956)は、その権謀術数ぶりや歯に衣着せぬ言動から「策士」「政界の大狸」「ヤジ将軍」などと呼ばれた。「ウソも誠心誠意つけば真実になる」というコトバは余りにも有名だが、プライベートも波乱万丈で、生涯に何人もの妾を囲っていたことで知られている。 三木は戦後、鳩山と共に公職追放された。戦前に報知新聞社の社長を務めており、「軍事体制に協力的だった」とGHQに狙い撃ちにされたのだ。昭和26年(1951)に追放が解除されるとすぐに第25回衆議院議員総選挙(昭和27年10月)に香川県1区から出馬したが、選挙中の立会演説会で対立候補の福家俊一から「戦後男女同権となったものの、ある有力候補のごときは妾を4人も持っている。かかる不徳義漢が国政に関係する資格があるか」と批判された。攻撃された三木はと言えば、悠然と演壇に立ち、「私の前に立ったフケ(=福家)ば飛ぶような候補者がある有力候補と申したのは、不肖、この三木武吉であります」「なるべくなら、皆さんの貴重なる一票は、先の無力候補に投ぜられるより、有力候補たる私に…と、三木は考えます」「なお、正確を期さねばならんので、さきの無力候補の数字的間違いをここで訂正しておきます。私には妾が4人あると申されたが、事実は5人であります。5を4と数えるごとき、小学校一年生といえども恥とすべきであります。1つ数え損なったとみえます」「ただし、5人の女性たちは、今日ではいずれも老来廃馬と相成り役には立ちませぬ。が、これを捨て去るごとき不人情は三木武吉にはできませんから、みな今日も養っております」と、愛人の存在をあっさりと認め、さらに訂正まで加え、聴衆の爆笑と拍手を呼んだのだった。三木は悠々と当選し、福家は落選した(なお、三木が1956年に死去したこともあり、福家は1958年5月の第28回衆議院議員選挙で当選した)。 三木はのちに「およそ大政治家たらんものはだ、いっぺんに数人の女をだ、喧嘩もさせず嫉妬もさせずにだ、操っていくぐらい腕がなくてはならん」と語っている。72歳で亡くなるときも愛人が5人いたという。それでも「本当に愛情を持ち続けているのは、やはり女房のかね子だ。ほかの女は好きになった…というだけだ」とも述べていて、そういう意味では愛妻家だった。妾たちもかね子は特別扱いし、よく世話をしていたそうな。 昔の政治家には多くの場合、そうした陰の部分があった。妻子持ちの男性議員が違う党の女性議員と恋に落ち、離婚→再婚に及んだケースもある。しかし、自らの非を認め、きちんと責任を取ったことで、その後も政治生命を保った。時代が違うとは言え、こうしたスキャンダルの対処法には、やはりその人の資質というものが現れるのだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019年08月02日 07時33分34秒
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