■ ヤマトタケル命が、創建した「三峰神社」。 タケルは、三韓征伐の為の武器を作る為、砂鉄の産地に、おもむいた。 卑弥呼は、ヤマトタケルの妹。 三韓征伐、神功皇后、武之内宿祢。 パワースポット。 三韓征伐後の、朝鮮半島、「新羅」」「百済」「任那」「高句麗」。(22)
カテゴリ:■ ご先祖様の、日本史探訪。
(1)先祖「ヤマトタケル命」が、創建した「三峰神社」。 ■ オオカミ信仰とは?ミステリアス紀行 三峯神社#78 1、「ヤマトタケル命」が、東国征伐のおり、山中で迷った。 その時、白い狼が、現れ、彼を、山頂へ案内した。 彼は、その地に、「三峰神社」を創建。 「三峰神社」は、昔、小学校の遠足で、来た、記憶がある。 それが、先祖の「ヤマトタケル命」が、創建したものである、と言う事を、つい最近、知った。 また、ヤマトタケル命(みこと)が、先祖であった事も、そうである。 これも、インターネットの、おかげであると思う。 ところで、「三峰神社」の、創建は、1900年位前、と言う事らしい。 そのいわれは、道に迷った、ヤマトタケルの前に、狼が現れ、山頂まで、案内した事によるが、 ヤマトタケルは、その地に、国造りをした、イザナミ、イザナギを、祭神として、その神社を、創建した。 なお、「三峰山」「三峰神社」の名前は、ヤマトタケルの父「景行天皇」が、その地を、巡行した時、命名したものである。 ちなみに、「三峰山」とは、「白岩山・妙法ヶ岳・雲取山」を指すが、雲取山は、2,017.13mであり、東京で、唯一、2000メートルを、超える山である。 この「雲取山」は、最近流行の、「鬼滅の刃」と、関係がある様だ。 2、「ヤマトタケル命」と、天皇、卑弥呼の関係図と、日本国。 当時の、日本の首都が「邪馬台国」であり、伊勢神宮が在った地方自治体が「倭国」である。 ところが、外国は、日本の国名を、「倭国」だと思い込んでいたので、混乱が生じた。 つまり、「倭国」が、二つ、存在したのである。 そこで、国号を「日本」とし、首都を「大和国」、倭国を、「伊勢国」としたもの、と思われる。 「大和国」と言う、首都名は、その当時、100余国に分かれ、対立していた諸国を、再統一したいと言う願いを込めて、つけられたものであろう。 また、「倭国」については、その、名前まで、変える必要は無い、と思われるかも知れない。 が、しかし、「倭国」の語源は、斎王の「倭姫(やまとひめ)」だったので、このままだと、斎王が、変わるごとに、国名も、変えなければ、ならなくなってしまう。 そこで、「伊勢」としたのであろう。 「伊勢」の語源は、神武天皇の兄の、「彦五瀬命(ひこいつせのみこと)」が、有力である。 上図は、当時の、「天皇家」と、伊勢神宮の「斎王」との関係図であり、「卑弥呼」が、「ヤマトタケル命」の、妹であった事が分かる。 ------------ ところで、なぜ、斎王「倭姫(やまとひめ)」や、国号に「倭(わ)」に、「倭」と言う、小さい、と言う意味の漢字が、当てられたのであろうか。 それは、現在では、斎王になるには、未婚の内親王でなければならない、と言う規定があると思うが、この「倭姫」も、外国に、認知された時は、未成年の、小さい少女、であった、とも考えられる。 あるいは、ヤマト姫が、老齢になっていて、(日本は、長寿だったので、)背が丸く曲がっていたため、背が、低い人と思われた可能性もある。 この時代の、日本人は、かなり、長寿であったが、内陸の盆地に住むようになって、「海塩」の摂取が、足りなくなったり、「淡水魚の寄生虫」に、やられ、寿命を、短くして行く事になる。 これは、私の説だが、しかし、何と、「周」の時代から、「倭」の記述が、あった様だ。 「周」紀元前1046年頃 - 紀元前256年。 「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八) 周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず (ウィキペディア) 所が、この記述を行ったのは、後漢の、「王充(おう じゅう 」、建武3年(27年) - 永元9年(97年)頃没)と、なっている。 つまり、後漢の時代に書かれたもの、と言う事らしい。 また、伊勢神宮の、斎王の起源も、それより、1000年位、いや、ウガヤフキアエズ朝にまで、遡るのかも知れないのだ。 その時代から、日巫女(ヒミコ)は、居たのであろう。 これらの事から、判断するだけでも、日本は、「漢」や、「秦」よりも、はるかに、古い国であった事が、分かる。 と、言うより、古代中国そのものが、日本の、地方自治体であった、可能性さえ出て来たのである。 ちなみに、中国と言う呼び名は、戦後の、日本が、そう呼んだから、ではなかったか? 昔は、志那(しな)と、呼んでいたらしいが、「中国」と言う記述は、中国の歴史書には、無いのではないか、と思われる。 むしろ、日本の、中国地方の方が、名前としては、古いと言われている。 3、「ヤマトタケル命」は、三韓征伐の為の、武器を作る為に、砂鉄の産地を巡り、同時に、三韓征伐に、従軍する兵士を、募集する為に、東征したのである。 ヤマトタケルが、東国へ、向かった理由は、鉄の産地から、鉄を供給してもらう為では、無かったかと、思われる。 それは、三韓征伐の為の、武器を、製造する為であったと、考えられるが、タケルは、志半ばで、この世を去る。 そこで、息子の、仲哀天皇と、皇后の、神功が、その遺志を継ぎ、北部九州へ赴くが、仲哀天皇は、熊襲の矢に倒れ、結局、「神功皇后」が、それを、実行する事になる。 なぜ、三韓征伐なのか? それは、「韓族」と、「匈奴」に、奪われた土地を、奪還する為であった。 4、「漢」の時代、中国から追われた「韓族」は、「匈奴」と連合して、「漢」と戦うが、敗退し、朝鮮半島を南下。 先住民は、日本に亡命。 紀元前196年、漢の「柴武」が、「韓王信」を斬り、韓と匈奴の、連合軍は、壊滅。 行き場を失った、連合軍の残党は、朝鮮半島を南下。 その侵略を受けた、先住民は、九州へ難民として逃れて行く。 この難民が、発生した時期が、「弥生時代」と、重なるのである。 難を逃れたのは、高句麗で、それは、彼らの、侵略ルートから、わずかに、それていたからである。 「高句麗(たかくうるわし)」は、万葉仮名「句」を用いているので、日本の、地方自治体としての国であった、と思われる。 彼らは、「夫余族(フヨゾク)」と呼ばれているが、「扶余」とはツングース語の、鹿(ブヨ)の漢字表記らしい。 鹿は、太占(フトマニ)に、用いられるので、これも、日本が、起源だと思う。 5000年前、中国大陸は、寒冷で、人は、住めなかったので、人が住める様になって、日本から、移動した、と考えられるからである。 発掘調査でも、朝鮮半島からは、5000年前の人骨は、出て来ない、と言う事で、 また、外国の文献には、「殷」は、もと倭人とか、「清」は、清和源氏の子孫が作った、とか、書かれている様だ。 ------------------ 景行天皇は、ヤマトタケル命に、九州の、「熊襲タケル」を、討っよう、命じる。 ヤマトタケルは、その命に、従い、九州の「奴国」へ、おもむくが、その時、九州の地に、半島からの難民が、逃れて来たのを、知ったのだと思う。 この地は、スサノオ命とも、関連が深く、福岡市の、「白木原」と言う所は、「三韓征伐」の後に、建国された「新羅」の語源となった地名とも解釈できる。 日本に、亡命していた、弥生人(半島縄文人)達は、神功皇后(じんぐうこうごう)、武之内宿祢(たけのうちのすくね)の軍団に加わり、三韓を降伏させ、後に「新羅」を、建国。 武之内宿祢は、「蘇我氏」の祖である。 蘇我氏は、実際に、朝鮮半島で、戦っている。 また、福岡市の、那珂川(なかがわ)の付近に、「五十川」と言う地名があるが、スサノオ命の、息子の「イソタケル」が、語源と、考えられる。 この地は、防人(さきもり)の地であり、それが、阻止守( 曾戸茂梨、そしもり)とも、表現されていた、と思われるが、外国からの、侵略に、備えていたのであろう。 ちなみに、スサノオ命が、新羅に降臨した、と言う説があるが、しかし、その時代、新羅と言う国は、朝鮮半島には、存在しなかったので、仮に、降臨したとすれば、白木原である。 また、「奴国」と言う地名は、元々、外人が、勝手に、漢字を当てた造語であり、これは、日本側にとって、屈辱的なものなので、「那国」(美しい、の意味)と言う漢字の表記に、変えたのではないかと、思われる。 この「那国」が、後の「任那(みまな)」を、管理する事になる。 「みまな」の発音の語源は、高句麗、新羅、百済の、三つの国の間に、奴国(那国)が、在る事から来ている、と思われるが、このシステムが出来た時に、奴国から、那国へ、漢字での表記を、変えたのだろう。 「奴国」では、「韓信の、股くぐり」を、連想させるから、この時期、変更したものと思われる。 ちなみに、「五十川」と言う川は、現在、確認できないが、それが、那珂川(なかがわ)になったものと思われる。 那珂とは「宝石の様に、美しい川」と言う、意味であるが、それは、勾玉とも、関係あるかも知れない。 当時、「勾玉」は、世界一高価な、宝石であったからである。 --------------- さて、ヤマトタケル命は、この地に来て、難民の様子を見て、三韓征伐の必要性を、感じざるを、得なかったのだろう。 それで、当時、大国主「ダイコク」の息子の、蝦夷「エビス」以来の、自治領であった東国へ行き、軍事的、協力を、求めたのだと思う。 「今、半島が、三韓に、侵略され、これを討たなければならない。 兵を、出しては、もらえないか?」 「ここは、我ら、エビスの、治める所だ。 天孫、ニニギ命と、そう言う、取り決めが、あったはずだ。」 「お前たちの、自治を、否定する訳ではないが、そうしなければ、必ず、彼らは、この国に、攻めて来る。 そうなったら、お前たちも、やられるぞ。」 「分かった。 出来るだけの事はしょう。」 おおむね、こう言った、感じだったと思います。 -------- 【 その後の、朝鮮半島。 】 さて、三韓が、滅亡した後、かつて、三韓から、土地を奪われた人々が、高句麗から、戻って来たが、「新羅」にとっては、面白くなかった。 「我々が、奪還したのだから、我々の土地だ!」 そう思ったに、違いない。 そこに、後の、トラブルの、潜在的な、原因があったと思われる。 しかし、日本の立場としては、奪還できたのは、我々が、軍を出したからだ、と言う思いがあった、と思われる。 そこで、「任那(みまな)」と言う、統治機関を置いたが、これは、国では無く、博多の「那(奴)国」に任せたから、そう呼ばれたのである。 また、韓族の侵入で、高句麗へ亡命していた「百残」と呼ばれた人々がいたが、彼らも、旧領地へ戻って行った。 高句麗としては、自国の領土が、拡大したつもりでいたのであろうか、いっこうに、貢物(みつぎもの)を、納めないので、戦いとなる。 この時代、倭国は、新羅や、任那に、数万の兵を駐留させていたので、倭軍は、新羅、百残の兵を、集め、高句麗と戦った。 その後、「百残」の土地が、高句麗に奪われたので、大伴金村は、任那の土地、4県を、「百残」に、割譲したが、「新羅」が、それを、横取り。 その為か、新羅は、高句麗、新羅、倭国を、敵にまわす事になるが、「唐」を、味方につけ、大戦争になってしまう。 倭国は、そうとは知らず、「敏達天皇」の孫「百済王」を、派遣して、「百済」と言う地方自治体を、本格的に、構築しょうとしたが、滅亡してしまう。 倭国としては、唐と戦おうとは、思ってもみなかった事であろう。 しかし、戦勝国であるはずの、新羅も、「唐」に、裏切られ、滅亡するが、残党を、狩り集め、「統一新羅」を建国し、日本に、朝貢し、属国となる。 そして、その後、「新羅」も、滅亡するが、結局の所、高句麗、百済、新羅の王族たちは、皆、日本に、帰化(帰って来る事)したのである。 ■ 千葉一二三のパワースポット巡り/三峯神社 (3) 今日の、ご先祖様。 イザナギ、イザナミ、スサノオ命、(神々)、 敏達天皇 景行天皇、ヤマトタケル命、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后、武之内宿祢 「赤字」は、今回、先祖と判明した方々です。 「青字」は、以前、登場した、先祖の方々です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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