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カテゴリ:アセンション
ようこそ、来て下さってありがとうございます。 私のような浅い者が、親鸞聖人の言葉をうかがうのはまったく畏れ多い事です。 ましてや、私は浄土真宗の門徒ではありませんし。 でも、地球のアセンションが近いという今、 当時とは時代が違うという事で、 解釈は少し変わっているのではないかと思われます。 そういう観点から、親鸞聖人のお言葉の中の “悪人正機”という教えについて、考えてみたい。 「善人すら往生を遂げられるのだから、 ましてや悪人なら尚更往生できる。」 という意味なのですね。 善人よりも、悪人の方が往生し易いという教えです。 極端な教えに聞こえてしまいますね。 であれば、悪行の数々を踏んだ者の方が往生できるなら、 悪人になろうという考えにもなってしまう。 でも、親鸞聖人はこうも言っている。 「薬があるからといって、何もわざわざ毒を飲むことはない。」 歎異抄十三 薬=往生、解脱 毒=悪行、悪人 言い換えれば、 「往生できるからといって、わざわざ悪人になる者はいない。」 という意味になる。 意図した悪人になることは避けたいと言っています。 これは、結果として悪になってしまった、 そういう悪ならば浄土に往き易いという事のようです。 この事は当時の時代背景を考えないと、 理解が得られないかもしれません。 親鸞聖人が生まれたのは1173年、今から836年も前です。 平家の世になり、そしてその平家が没し、 源氏による鎌倉幕府が誕生する。 戦と飢饉、疫病が蔓延する生きる事すらも厳しい時代でした。 一生懸命働いても、報われない時代。 何時死んでもおかしくない時代。 悪に染まるか、出家するか、或いは死ぬか。 一軒の火災から、京の都の半分が焼け野原になることも数度。 希望が見えない時代、楽しみの薄い時代、 何を信じて生きればよいのか解らない時代。 皆が今日を生きるのに必死な時代だったようです。 生きるという事は、苦そのものだったのですね。 そんな時代の中で、親鸞聖人は何を為すべきかを自問自答する。 当時の比叡山は、公家や武家の為のものであったらしい。 読み書きすら出来ない、貧しい一般の人達は、夢や希望はない時代。 そういった衆生を救う事が、親鸞さんの願いでありました。 生きる為に、生あるものを殺生しなければならないこの身を、 潜在的な悪、宿業と親鸞聖人は言っています。 だから、全ての人間が、言わば悪なのだと。 現代の言葉で言えば、カルマの事ですね。 念仏を一心に唱えれば、カルマを浄化させて解脱出来ると言われています。 人間の本質は、限りなく喜びを求める存在であると思います。 より質の高い歓びは至福感です。 これは、神との一体感で、経験者はまだまだ少ないのでしょう。 阿弥陀仏の力を信じることは、本願他力という事。 大いなる存在を信じ、その存在に守られているという安心感は、 大きな喜びであるし至福感です。 粗末な住まいや服、食事であってもそこには喜びがあります。 なんせ、解脱に至る道を進んでいるのですから。 三次元的な物への欲望や執着は、 限りなく少なくなっちゃいます。 ここでの落とし穴は、何度も書きました。 選民意識や優越感を持つことは、避けなくてはいけません。 この事が、自力を排除するという事ですね。 ここのところが、ちょっと難しい。 私のテーマでもあります。 いつも平らな心で、 謙虚さと感謝の心に満たされてさえいれば、 解脱の扉はすぐそこで待ってくれています。 -----*****-----*****-----*****----- 青い鳥の夫婦が、我家に居候を決めようとしています。 ![]() もう、一週間くらいいつでもいます。 ![]() 人懐っこくて、可愛い青い鳥。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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