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テーマ:今日行ったコンサート(1209)
カテゴリ:クラシック
19:00〜 サントリーホール 2階右側 シューベルト:歌曲集「冬の旅」 D.911 バリトン:マティアス・ゲルネ ピアノ:マリア・ジョアン・ピリス 文化の日絡みの3連休の初日の土曜日、午後から大雨で這々の体でサントリーホールへ。まぁ車で行きましたけどね。 正直言うと、良くなかったです。残念至極。具体的にどう駄目だったのか説明しますが... ちょっと下世話な話をすると、この公演、私一応先行で一番安い席を買ってました。1万円。歌曲のリサイタルで1万円はまぁ普通ありません。オペラ歌手、と言う切り口で言えばなくはないですけどね。多分こうなっているのは、ゲルネというよりはピリスが出るからなのでしょう。日本で一回だけの公演だとか言われてますし、ピリスが他のリサイタルをキャンセルした中で唯一の演奏会になるそうで。幾つかサイトを見ていたら、「ピリスが共演に選んだのがゲルネ」とかいう書き方してるところもありましたし。 この記事では多分幾つか暴言が出て来るのですが、率直に言うと、私の理解では、ピリスはかなり有力なピアニストの一人。ゲルネは、ドイツ歌曲歌いの最高峰の一人。個人的には存在としてはゲルネの方が稀有だと思ってます。それでなくても歌曲は、冬の旅は、まずもって「歌」なのですよ。だから、ピアニストが先に来るイメージははっきり言ってかなり勘違いだと思っています。でも、これが、この演奏会に対する認識なのかも知れませんが。実際、自分だってゲルネだけで1万円って言われたら躊躇すると思いますから、ピリスがそれなりに存在感あるのは事実ですけれども。 因みに、本当にたまたまなのですが、再来週シンガポールでクリストフ・プレガルディエンがミヒャエル・ギースと水車屋をやるそうです。一番安いところは完売で25シンガポールドル。大体3千円くらい。高い方で1万円くらいらしいです。それで、高い方はまだそこそこチケットがあるとか。いや、行かないんですけどね。たまたま故あって調べたら出てきたんですけれども。 それはともかく、この日のサントリーホールも、完売ではなかった様子。そこそこ埋まってましたけれどね。まぁ、この値段で冬の旅でこれなら分からなくはないけれど。 既に出オチで良くなかったって書いてるんですけれど、正直、そこそこ拍手喝采だったようです。でも、こちらとしてはそりゃ違うんじゃないの、と言うストーリーな訳ですが。 何がダメかを簡単に言うと、準備不足です。主にピリス。ただ、それで舞台に出てしまうのだから、それはゲルネも問題。もう一つは、ピリスのアプローチ、というところでしょう。 準備不足というのは、まず、ピリスにミスが多過ぎるということ。ミスタッチではないです。ミス。具体的には音符を飛ばしてしまう。私の理解では、ミスタッチというのは、本来弾くべき音でない別の鍵盤を弾いてしまうこと、その結果本来鳴らない音が鳴ってしまう事だと思っています。それで乱れるとしても、音価はズレないのが基本。リズムも崩れないのが基本。ではなくて、音符を飛ばしてしまって、結果崩れちゃうんですよね。一人で弾いていれば自分でフォローすればいいのだけれど、歌曲というのは旋律線を担当する歌手がいるので、これやられるとグダグダになる。 この日は、前半で4回くらい崩れてました。うち一回は、あれはゲルネがしくじったと思うのだけれど、残りはピリスが音飛ばしてました。それは凄く困るんですよ。後半で、ゲルネが曲の途中で出をしくじったのもありましたが。16曲目の最後の希望。アレは確かに出にくいんです。私も自分で歌っててここは厳しい。でも、ゲルネなんだからさ、ど素人のアマチュアと同じミスしてちゃいかんでしょうよ。実際、ここでしくじったの聞いたの初めてです。ただ、だからといって、前半でのピリスのグダグダっぷりは帳消しになるものではない。 ただ、それは、必ずしもピリスだけの問題ではない。恐らくこの二人、詰め切ってなかったんじゃないかと思うのですね。前半を聞いていると、そもそも出が合ってない、或いはテンポ感が合わない感じがあったと思います。時々、ゲルネのやりたいこととピリスのやりたいことが噛み合わない。だから、空中分解までいかないにせよ、何処に行こうとしているのか分からなくなる。 もう一つは、ピリスのアプローチ。というか、私に言わせると悪い癖なのですが、まぁ、これ、わかるかなぁ..... ピリスはシューベルト弾きとしても定評があるようです。ただ、私は、決してピリスは嫌いではない、むしろ好きな方のピアニストではあるけれど、ちょっと癖があると思っていて、つまり、時々、アレンジとまではいかずとも、表現の幅の内、と言いたいのでしょうが、楽譜通りでない進行をすることがあると思っています。特に、シューベルトで。モーツァルトはあまりないんだけれども。 私は、シューベルトというのは、演奏者ごとき - 敢えて「ごとき」と言いますが - が余計に脚色せずとも、愚直に演奏するだけでもう十分歌になっている音楽というのがよくあると思っています。特に、ピアノソナタなんかはその典型で、むしろ形式に拘って書いたシューベルトを信頼して余計に手を加えない方がよほど歌に満ちた音楽になるケースが多いと思っています。即興曲とかは、単独で弾かれることもありますし、自由度は比較的高いと思うんですけれども。 で、冬の旅も、伴奏のピアノはあまり必要以上に捏ねくり回すべきではないと思っています。なにしろ主旋律は基本歌の方で担当してますから。表現の工夫というのはあるにせよ。 今回のピリスは、つまり、捏ねくり回しちゃうんですね。その結果、伴奏が表現して欲しいものが何処かに行ってしまう。一つ例を挙げれば、4曲目の「かじかんで」。この曲は、1曲目で夜人目を偲ぶように旅に出てから初めてと言っていいテンポの速いリズミカルな曲。大きく言うとA-B-Aの形で、短調で激しい嵐を表すようなAの部分に対して、長調を交えながらかつての幸せだった日々とそれが失われた嘆きを描くBの部分のコントラストが特徴的な曲。この後には「菩提樹」が続きます。だから、ここは、テンポとリズムが大事なのです。まぁ、一般的にはね。 これを、ピリスは、テンポを揺らしてしまうのです。そして、一気呵成に行けない。音楽の大きな流れがつっかえてしまう。こうなると、聞いている方も、歌う方も、この曲の全体の中での焦点がボケてしまうのですね。 そう。これはゲルネの問題ではあるのですが、そもそも、この「冬の旅」という歌曲集をどう構成するか、というところがさっぱり分からなかった。 一般的には、この歌曲集をやるなら、まず最初の5曲が一塊で、さっき書いたように「おやすみ」から「菩提樹」までは一つの流れとして続いているように意識すると思います。そこで一区切り、ざっくり言うと12曲目までは一連で、13曲目の「郵便馬車」からまた別の一塊が始まる。私は19曲目までが一塊で、20曲目の「道しるべ」からの5曲が最後の塊と意識してます。21曲目の「宿屋」がポイントという考え方もあると思いますが。で、その中で、どういう構成をしていくか、というのは考え所だし、1曲1曲の表現も方向性もそれに拠って決まる部分もあると思います。 でも、この日の演奏は、言ってみれば全然繋がりが感じられないんですね。各々一曲づつを演奏するので手一杯で、全体をどう構成するかというイメージが感じられなかった。 その一曲一曲もムラが多くてあまりいいとは思えなかった。一つ一つ挙げていくとキリがないのだけれど、一つ挙げれば、21曲目の「宿屋」。この曲は、或る意味「冬の旅」はこの曲で終わりでもいいんじゃないか?というくらいの曲。主人公が教会の敷地内にある墓場にやってきて、憩う場所を求めようとする。つまり、死を希求しているわけですね。しかし、ここにお前の入る場所はないと拒絶される。それならば、忠実な杖を供に旅を続けよう、と歌う。 これ、解釈は如何様にも出来る曲です。キリスト教では自死は罪なので、死を希求するのを拒絶される、というのをそこに重ねて見ることも出来れば、教会の墓に入ることを拒絶される、つまりは社会から最後の関係性すら疎外されている、という見方も出来る。他にも色々ありますが、ともあれターニングポイントと言っていいと思う重要な曲。「旅を続けよう」と歌う、それをどう歌うのか。元々冬の旅はあまり速度を揺らすような曲ではないと思うのですが、この曲の場合デュナミークで表現をしていく歌なので、尚更余計なことをすべきではないと思うのですが... この日のアプローチは、かなりゆっくりした入り。これは歌手殺しのテンポ...と思っていたら、後半部でテンポが上がってしまうんですね、どうやら。ま、こちらの聞き間違いの可能性もありますが、それはちょっとどうだろうと。遅過ぎるから速くさせたのか。それとも、そういうやり方なのか。でも、結果、後段での表現はやや散漫としたものになってしまったように思います。後段2節でどうしたいのか。表現がはっきりしなかった。個人的には、テンポの変化に伴って、どう歌い上げればいいのか決めかねているように感じました。 ゲルネの冬の旅は、何年前だったか、紀尾井ホールで聞いたことがあります。10年以上前かも知れませんが、その時の冬の旅は素晴らしかった。細かいところまで覚えているわけではないけれど、王道を行くが如きで、21曲目はなるほどこれが終わりかも知れない、と思わせるような歌い上げ方だったのを覚えています。 それに比べると、今回は全体にまとまりのない印象。一曲一曲のムラもあるけれど、それ以上に一連の歌曲集という感じが希薄だった。言わせれば、この曲集は元の詩集の配列とは違っているし、この並びが必然ではなかった、という言い方はされるのだけれども、それは言えばそうなのであって、現実に成立しここにある歌曲集という形態を認めるならば、やはりこの一連の曲集でどう表現するかが問われるのであって、感性に従って自由にやればいいのだ、というのはアナーキズムに過ぎないと思います。 やはり、練り切ってないな、という感想です。ゲルネは以前ピエール・ロラン=エマールと「詩人の恋」とかやってますし、別にピアニストに位負けするわけではないと思うので結局は詰め切れてない、練り切れていないということなんじゃないかと思うんですけどね。 ピリスは、確かにピアノの音は綺麗ではあったけれど、ただ、それだけではこの曲集は無理なのですよ。そもそも24曲、この日の演奏で1時間15分くらいでしたが、個人的には交響曲1曲に優に匹敵すると思ってます。そういう音楽で、しかも一応流れがある以上、よく練らないと音楽の構成が作れないと思うんですよね。やはり今回は準備不足だったと思います。こういうのをスリリングだとか斬新だとか言う向きもあるのかも知れないけれど、私は、「冬の旅」として未完成だったと思います。 まぁ、「次」はないんでしょうけれどもね。こんな日もあるさ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年11月03日 02時32分41秒
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