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緑茶猫さんの日記で、松井孝典氏が、
「我思う、ゆえに我あり」ではなく、「我まじわる、故に我あり」だと思う。(「いまいのちを考える」岩波書店 )と書いていたというのを紹介していて、フーンと考えた。 緑茶猫さんはそれに続いて「会話をしなくても、まじわっていると思った今日。」と書いていて、いいなあ、と思った。 緑茶猫さんと誰かがいっしょに「いる」という感じが、その一言から伝わってくるのだが、 しかし、松井孝典氏というのは、東京大学大学院理学系研究科助教授で岩波新書で「宇宙人としての生き方―アストロバイオロジーへの招待 」という本を出しているらしいから、 彼の言うところの「我まじわる、故に我あり」とはいったいどういうことなのかと、考えてみたくなった。 考えるが、まさか「我まぐわる故に我有り」ということではあるまい。「我交流す故に我有り」ということだろうか?縁起ということだろうか?我は網の目の結び目なり、故に我無しということだろうか?我ネットワークのなかに存在す、ということだろうか?我相互依存す、ということだろうか?すると我有りなのか、我無しなのか、我起こるということだろうか? この人の言う宇宙人としての生き方は、7つのチャクラと7つのサトルボディー(微細身)のマップにてらすと、どんなふうに位置するんだろうか?などと考える。 すっかり「我考える故に我有り」って感じになってきて、お腹が空いてることも忘れだす。「我生きる故に我有り」とか「我食べる故に我有り」とか「我生殖す故に我有り」とか「生き残る」ための第1チャクラの働きよりも、メンタル(精神)活動が過多になってくる。 この日記を書くようになって、パソコンに向かうことが多くなり、作家みたいな気分で毎日いるから、僕のメンタル活動は少しアンバラスに肥大してきている。本当のメンタルヘルスとは何かということについては、また書くつもりだが、今日のところはこのままつっぱっしみる・・ (第1チャクラ。骨盤の中心に位置していて、背中側の脊柱の最低部と前側の恥骨との間にあります。このチャクラの機能は、生殖力、地に脚をつけること、身体の基礎と生存のための能力を含みます。このチャクラのエネルギーが制限されていると、生き残ることに恐怖と困難を感じ、大地とのつながりを失います。) デカルトがほんとうには何を言ったのか浅学ゆえに知らないが、心身二元論の祖なんて書かれていることもある。 僕は我(自己)とは何か?ということを、7つのチャクラと7つのサトルボディー(微細身)のマップにてらして考えることが好きだ。 デカルトの「我思う、ゆえに我あり」とは、疑う主体を我と言っているようだから、この場合の我というのは、思考する我のことだろうか? 「我思考を生産す」なのか「我思考の電波を受信す」なのか「我情報を取捨選択す」なのか、我は思考の海の波頭のひとつに過ぎないのか、議論の分かれるところだが、 いずれにしろ精神活動を我と呼んでそうだから、この言葉は第4身体(メンタル体)と第4チャクラの活動を我と呼んでいるのだろうか?この間のアビの日記「時代の病 心の病はおもしろかった。 デカルトの場合は、「我同一化す故に我有り」という第6身体と第6チャクラの歪んだ見解からの言葉とも言える。なんであれ「我自己同一化す故にその同一化した自己有り」。 デカルトの場合、メンタル活動に自己同一化しているから「我思う故に我有り」と考えるわけだろう。 いずれにしろ第4身体と第4チャクラの働きだとしたら「我思う」よりも「我想う」と書いたほうが幅広い。 さらに「我愛す」とか「我受容す」とか「我包みこむ」「我無くなる」というのもあるような気がするが、「故に我有り」となると、それに同一化しているということになるから、「私は愛なんだ」とか、「私は空っぽだ」とかむやみに言う人は避けたい。 それに「我想像す」とか「我夢想す」とかいうイマジネーションも第4身体と第4チャクラの働きだ。「我願望す故に我有り」といえる人はツイテるひとたちで、「我実現す」にこだわってると多分、第三のパワーの次元に同一化している。 ( 第4チャクラは、胸骨がある胸の中央にあります。その機能は、無条件の愛と平和。それは自分や他の人を無条件に受け入れ愛するための能力を与える。また中心の空っぽさからは、直感がやってくる。このチャクラのエネルギーに制限があると、良い悪いの判断を持った思考によって条件づけられ、過去や未来を夢見、さまよい、現在にいることが難しくなります。) 第3身体と第3チャクラの活動に自己同一化していたら、「我は我也故に我有り」というかな。フィリッツ・パールズだね。 「我はチカラなり」とかね。 個人であることと活力に自己同一化しているとこうなるだろう。 この部分が健康でないと「我葛藤す」とか「我競争す」とか「我戦う」とか「我嫉妬す」とか苦しいなあ。「我分裂す」「我裁く」「我責める」「我判断す」「我拒絶す」「我否定す」「我努める」「我頑張る」「我支配す」「我支配される」「我犠牲になるなり故に我有り」なんてこともあるだろう。 ニール・ヤングだと「我ヘルプレス故に我あり」と歌うところ。 まあ、この世のほとんどの苦しみは、第3身体と第3チャクラの病と関係している。内なる分裂のさまざまが、神秘的に合一されたら「我統合す故に我有り」か。 OSHOのユニオ・ミスティカという本は僕にとって大事な教科書のひとつというのはまた別の話し。 (第3チャクラは、みぞおちに位置し、お臍の上、胸骨の下にあります。それは生き生きとした活気、パワーを与え、感情を表現したり、完全に個人であるための力です。このチャクラのエネルギーに制限があると、支配や被支配、比較や競争、判断や投影、過剰な緊張や無力さに巻きこまれ、個人としてのパワーはそれらに漏れていってしまい、戦いと欲望に苦しみ、休息できません。) さて、タントラの人とかだったら、「我感ず故に我有り」というかしら。第2(エーテル)身体と第2チャクラを表すにはこの一言だと思う。「我感ず故に我有り」 その他、「我交わる故に我有り」とか「我溶け込む」とか「我離れる」とか、「我結びつく」とか「我結び付けない」とか共依存の問題もいろいろでてくるが、「故に我有り」というほどの「我れ」がはっきりしていないから、こんなこといわないか? 第2チャクラと第2身体の、流動的で水のような性質は、「固まった我れ」という感じではないから、投影とかも起こりやすいが、感じるということは、とても大切なことだ。 大切だけど、このエリアに自己同一化してしまうと、「我喜ぶ故に我有り」となってしまって、人生が退屈な時は困る。 最初に戻って、松井孝典氏はこのことを言ってるとは、どうも思えない。 ( 第2チャクラは、ちょうどお臍の下にあります。その機能は、官能性、感情と満足を感じるための能力であり、他人とつながったり、はなれたりするフィーリングです。このチャクラのエネルギーに制限があると、人間関係は難しく、世界とひとつに溶け合ったり、独りであることを感じることの喜びは少なくなります。) 第5身体と第5チャクラの働きは、一般的には「我創造す故に我有り」と説明されているが、 「我理解す」とか、「我表現す」とかいってもいいだろうし、 「我信ず」「故に信じる我」が創造されるんだろう。 そのことに「我責任を取る」「故に自由あり」だ。 しかし振り子が反動で逆に振れるように、信念で創り出した現実は、後で別の現実に復讐される。 だからこの楽天内で「宝の地図」つくりが流行っているみたいだが、僕はそれを杞憂している。 日記リンクしているツイテるファシリテーターさんも スリー・イン・ワンの考えから「思考が現実化するブームの危険性」「光を追いかけると闇が生まれる」といったことを書いていらっしゃた。 ( 第5チャクラは、喉にあります。それは創造性と責任、理解とコミュニケーションの能力を与えます。このチャクラのエネルギーに制限があると、凝り固まった信念によって、パターン的な反応しかできなくなって、自由さが失われ、運命の犠牲者となってしまいます。) 第6身体と第6チャクラは、よく第三の目とか呼ばれるからサイキック能力と関係ありと思われているが、 もっとすばりいえば「我気づく故に我有り」ではなかろうか。 気づきがあるから、「我見とおす」とか「我自覚す」とかの「我れ」がある。で、この「我れ」が最終的な「我れ(自己)」ではないかと僕は考えいる。 トランスパーソナル・セラピーとして名高いサイコシンセシスでは、身体、感覚、感情、思考から脱同一化して最終的に残る自己を、それらすべてに気づいているもの、としているが、「気づき」が究極の我れ、エゴの最終ポイントではないかと、僕は考えている。 この「気づき」が宇宙に、存在に溶け込んで行くこと、言葉を変えれば第6チャクラの気づきが宇宙大に拡大するには、 第七チャクラからの光とハラからの生命エネルギー、そして他のすべてのサトル・ボディーとチャクラからの健康なサポートが必要と考えている。 第三の目だけ発達した目つきの悪い人にはなりたくない。だが、気づきの光が少ないほど 「我何かに自己同一化す故に同一化した何かの我有り」となるのだろう。瞑想って大事だな。 ( 第6のチャクラは、眉の間の点の後方で、頭の真ん中にあり、第三の目と呼ばれています。それは内側のビジョン、サイキックな能力、そして自己を知るための気づきの能力を与えます。このチャクラのエネルギーに制限があると、意識は狭まり、明晰さを失い、ものごとへの同一化が起こり、人生は退屈でつまらないものとなります。) そして第七身体と第七チャクラのことはあんまり僕はわからない。だってまだ宇宙に溶けこんで消えてしまっているわけでなく、ここでこんなことを書いている僕がいる。 「我超えて故に我無し」とか、「我消えて故に宇宙有り」とか「我悟る」とかだろうな。 「我観照す故に観照者あり」らしいと少しわかってきた気がするので、悟りとか光明とか分けのわからいものを目指すより、観照者というものが起こるための準備に、努力の狙いに定めている。 この観照者の出現には、すべてのサトル・ボディーとチャクラを含み、それを超えた領域からの恩寵が必要ではないかと思っている。 OSHOは、変容のためには三つの要素が必要だという。「1 強烈さ、生き生きとして、トータルであること。2 空っぽさ、スペース、ハート。3 気づき。空っぽさの気づきと生のエネルギーに対する気づきを含んだ、広大な気づき。」 けっきょく、すべてのサトル・ボディとチャクラに意識をもたらすことで矢を絞り、「今ここ」という標的を狙う。 その努力のためにいろんな瞑想やワークがあるが、 幻泉館主人さんが今日の日記で、フト訪れる「自己喪失の体験」について書いているように思える。とても美しい文章だ。 「存在からの恩寵」は絶えず降り注いでいるんだろう。こちらの準備と努力によってそれを引寄せることはできないが、器づくりを怠らないこと。器とは拡大された意識のこと。「1我生きる」でも「2我感ずる」でも「3我は我」でも「4我想う」でも「5我創る」でも「6我気づく」でもなんでもいいから、 その「我れ」がなかったら「あなたは誰ですか?」 と問うたときの、言葉にできないアレを思い出すと、今ここにもアレがあるので、今日はここらでおしまい。めでたし、めでたし。おつかれさまでした。 ( 第7チャクラは、ちょうど頭のてっぺんから上方にのびています。それは個人を超えた宇宙意識へと開かれています。)… お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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