しんどすぎるので、サイキッなお婆ちゃんのところに行って気を入れてもらう。
お婆ちゃんには、独特のお婆ちゃん用語があるので、それは僕の心理学や秘教の知識とのすり合わせは完全に出来ていないから、お婆ちゃんのところでは、お婆ちゃんの話を黙って聞く。
お婆ちゃん曰く「神様詣でも良いけど、そうやって連れて行った人は軽くなってはるけど、その分、あんたのところに重いもんがいっぱいやってきて、さぞしんどかったでしょう。」と言って、手を当ててくれる。「いや~。別に神社とかここしばらく行ったりはしていないんですが・・」と何度言っても、お婆ちゃんは、神様詣でとして話を進める。
普通の人どころでなく頭は冴えていているお婆ちゃんだけど、こういう時は、彼女の見える世界を彼女の言語で表現することを譲らない。たぶん、このかんのグループの仕事のことを指しているのだろうと思う。
「神様詣では大切やし、続けることで神さんと太いパイプが出来ていくけど、あんたみたいな人が大変やね。中途半端に光っているから、人様の人の分まで荷物が寄ってくるし、もっと甲子園球場のようなライトが煌々としてたら、そんなものは焼けて消滅するんやけど。まあ、相撲でも何でも、投げ飛ばされて強くなっていくということやから、なにごともお勉強会。高いお勉強やけど。
ところであんた、瞑想とかしなはったら。」と、いつも言われる。お婆ちゃんからしたら、僕の瞑想なんて、瞑想とは思えないらしい。
かと言って滝行とか、先祖供養とかは、その道のプロがするもので、神社巡りなんかするよりも、そのお金で鍋でもつついて、幸せになりなさい、と言う。
論理矛盾はするのだが、彼女の話はいつも的確だ。あまりに遠慮なくスバスバ言われ過ぎるから、そんなに日常的に会いたい人とは思わない。明るくまっとうすぎて、こちらが暗いときはまぶしすぎる。
そのお婆ちゃんから見て、グループは神様詣でに見えるらしいとしたら、参加者は内なる神に出会っていいんだけれど、ついでに魑魅魍魎を僕の上に落としていくらしい。ずっと昔、こういったことにまったく関心がなかったころから、カウンセリングで話を聞いたら、肩の荷が下りました、とクライアントは晴れやかな顔で帰って、僕は肩がなんだかドーンと重くなって、その後寝込んだりしていた。
あの手この手は色々講じて、だんだんましに成ってきたが、少しずつ埃が積み重なって、やっぱり今のところ最後の手段としては、お婆ちゃんの霊気(?)が最高だから、高いお金でかたをつけている。
帰り道には世界はビカビカに輝くし、自分も世界も良きものであるかに思う。沈む夕日の世界でなく、昇る太陽の足取りになる。生きていて良かったと思う。
ところで、お婆ちゃんは、僕の背中を触りながら、恨みの念も来ているねえ、と言う。生きてる人のはしんどいんですよ、と淡々と言う。こういうのは怪しいことだと思う人は、「呪いの研究 拡張する意識と霊性 トランスビュー 中村雅彦」を読んでみてください。愛媛大学教育学部教授が書いたこの本は、こういうことに興味のある人には、お勧めだ。科学的に、むちゃくちゃおもしろく、恨んだり妬んだりする気持ちがエネルギー化していくことについて考察している。(この人の別名のホームページもあって、おもしろく怪しすぎるので人には教えたくないくらいだけど、僕のもうひとつの情報ホームページMYSTIC UNIONにアドレスをリンクしたのでそちらを見てください。)
民俗学、心理学、トランスパーソナル心理学の視点から、トランス・コミュニケーションの可能性について論じているし、四国地方の拝み屋さんについての描写が小説のように面白く恐ろしい。
さらにニュウエイジ系の人は、バーバラ・ブレナンの「癒しの光」の何章かに、バイオ・ストリーマーという名前で、ある人がある人を思った途端に、距離を越えて、エネルギーの紐が相手に伸びて絡みつく、という説明があった。今、本が見つからないから、いつか紹介しようと思う。
そういえば、ハートの表層のエネルギーは、空間を飛び越えて、想う相手のところに届くといったことを、ハート瞑想の大家のワドゥダ(アメリカ人)も言っていたように思う。
恨みの話はさておき、目の前のクライアントのエネルギーに影響されるということは、僕は僕の理解では、人を援助しようとする仕事の人はその仕事の性格上、第二身体の吸う息で相手のフィーリングを吸い込んで、相手を理解し、共感できるのだが、その時、気づきを持っていなかったら、気づきという主人のいない空き家には、泥棒が入ってきて、居座ってしまう、といったことで、仕事で相手を感じながら、同時に自分の(相手とひとつになった)フィーリングにも気づきを失わないで感じているという練習をアメリカでみっちりとしたのだが、なかなか日本で疲れてくると難しい。このことについては、第二身体の気づきの問題として12月22日の日記にも少し書いたが、これは、感じるタイプの人には役に立つことだろうから、また詳しくいつか書きたいと思うが、仕事中、特に我を忘れて全身全霊で没入する仕事中に、気づいていることの難しさについては、左の一覧の記事の仕事のページに載せた和尚の「<気づき〉の瞬間を数えよ」という講話が参考になる。
しかし、どうやら、それだけで解決するものでもなさそうだ。
お婆ちゃんには、お婆ちゃんの見えるすごい世界がありそうだし、怖ろしいのであんまり聞きたくもないのだが、ますますこの世の神秘は深まっていく。
誰かが僕を恨んでいるかもしれないのも神秘だが、それにしても恨まれるようなことをしてしまったことをあやまります。ごめんなさい。