「追記」
ここのところ、あるカウンセリングのテクニックについて勉強し直している。20年くらい前に、勉強会や研究会、ワークショップで何度も、何度も勉強し、体験したものだが、もう一度、僕の関心に浮上してきた。
それは、カール・ロジャースのクライエント中心療法の流れから発展してきた、カウンセリング/心理療法の世界の言わば「正統派中の正統派」に位置付くテクニックだが、今、本や資料を読み返してみると、大地に水が染み通る様に理解できる。
それで最近、何度も、ベーシックなその技法を、アバヤと二人でやりあいっこをしている。それがまた、僕たちがずっとやってきたハート瞑想と似ていて、非常に興味深い体験をもたらす。
例えば、そのやり方は心でも身体でもない「あいまいな実感」を手がかりにしていくのだが、これは思考でも身体の実感でもない第二身体や第三身体の(チャクラを含む)モヤモヤに気づいていくということと同じではないか?
それから感情にどっぷりひたらないで、問題に巻き込まれずに、それと友達のようにして脇に寄り添うという姿勢は、僕の言葉で言うならば、「瞑想的」ということだし、テクニックとして、問題を変えようとしない、問題に耳を傾ける方法としては、これはアメリカのOSHOアカデミーで学んでから、この七年間くらい、かなり僕としては、身を入れて自分に働きかけてきたサイコロジー・オブ・ザ・ブッダ(あのカヴィーシャが作り出した)のテクニックの、あるステージと重なる。
この間、アカデミーのワドゥダが、人間を七階建てのビルに例えて、二階(第二チャク)で水漏れがしていたり、三階(第三チャクラ)で火事になっていたりする時に、五階や六階に登って、上から「何故、こんなことになってるんだろう?と考えても仕方がない。それよりも下に行かなくてはいけない。」と上手に説明してくれたが、そのテクニックも、何故ではなくて、「これは何だろう?」という問いかけを大事にする。
さらに、「それは私に何を知ってもらいたいんだろう?」「ここになにかもっとあるかしら?」という問いかけもして、その当たりが良質な心理療法のアプローチだと(つまり瞑想ではない)と僕には思えるが、しかし、それを許し、そのままにしておく瞑想の技法でも、問題が(つまり水漏れや、火事が)自らの秘密を、語りだしたりもする。
マインドを否定せずに、それを変えたり、なくそうとしないで、マインドとのある関係を持つことで、そこから距離が生まれだして、結局はマインドの外側に連れ出される・・・という方向に向かうかどうかが、サイコロジー・オブ・ザ・ブッダ(ブッダの心理学)との分かれ道に思われるが、そのテクニックは、かなり良い線を行っている気がする。
少なくとも、よりホールネスに(全体的に)になることの助けには、とてもなると思う。変容の錬金術の第一歩として「あなたがアスホール(ケツノ穴)だったら、まずアスホールネスになりきること」と秘教科学者のワドゥドゥが教えてくれたし、カヴィーシャも、「人は光明を得る前に、全体的にならなければいけない」と言っていた。そして、ホールネス(全体的)は、ヒーリング(癒し)の語源だ。
さて、僕はといえば・
胃が緊張しているのだが、探ってみると、その辺りは休息したがっていて、ほっと一息つきたいのだけれど、穴ぼこにひきずりこまれそうで、それが怖くて穴のヘリに掴まって、ジタバタしているので、息を吐けない。喉の辺りから出ている綱につかまっている様子。だから本当には活動的になれない。