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カテゴリ:チャクラとサトルボディ
チャクラジベリッシュ瞑想のこと。長文です。
第七チャクラは、スピリチュアリティ、存在とのつながり、一体感 という解説と宇宙的な音楽が鳴るので、ふにゃふにゃと宇宙語的なものを喋ることが多いが、このところキリスト教の異言の本を読んだので、ちょっとお祈りのようにむにゃむにゃと唱えている。 何か困った時に、ショーケンみたいに「神様 お願い」とつぶやくよりも、ハートに手を当てるのが習慣にはなっているが、真剣に困った時は(そんなにないが)「神様助けて」とやってるような気がする。 どこかに白い髭の神様なんてのがいるとは信じていないのに、自分の力ではどうしようもない時に、自分よりも大きなものにすがって、自分の願い(欲望)を押し通そうとする条件付けのたまものである。 僕は祖父が出来た人で、子どもの頃に優しくしてもらったから、ちょっと困った時に「お爺ちゃん 助けて」とつぶやく癖がある。誰かに守護霊さんだと言われたから、それも影響している。 OSHOはお願いを聞いてくれるとは思ってないから、OSHOには頼まないつもりだったが、昔にあるヒプノシスをしてもらって意識がクリアーになった時に、OSHOの顔写真が変化していったことを覚えている。 OSHOにお爺ちゃんの顔を重ねていたのだ。無意識で。 OSHOの顔が空っぽになったわけではないが、その上に重ねていたお爺ちゃんのイメージが流れていって、よりリアルなOSHOの顔になった経験がある。 マインドは恐ろしいなあと思う。 近所の氏神様や、神社に行けば、普通の人のように手を合わせお祈りする。 たいてい何かをお願いする。頭下げて、合掌して、健康とか、周りのひとの幸せとか、何かそういう些細なお願いする。 軽くやってるのだが、まあそんな感じ。サニヤシンだからこんなことやっちゃいけないというこだわりもなくなって、形とか儀式とか嫌悪するこだわりもなくなって、みんながやってるようにやる。僕も年取ったものだ。 ばからしく感じる時はやらないし、気が向いたらやる。基本的に、困った時には、神社に行ったりはしない。ハートに手を当てるのだ。 しかし、気分の良い時の散歩ついでだから興に乗って・・という感じで、神社にはお参りする。 子どもの頃から、神社とかお寺とか、そういう処はほっとする。 しかし、だいたい祈りというのもわからない。 遠隔ヒーリングでお祈りしましょう・・みたいな呼びかけもたいてい無視する。 といった不信心ものなんだけれど、OSHOがくれた名前の名字は「神聖」である。 愛(プレム)とか至福(アナンド)とかよりも、神聖が大事なのである。 それでインドのキルタンなんか聞くと、胸がわくわくする。ハリ・クリシュナとか、ハリ・ラーマとか歌うと陶酔する。 しかし同時になんだかなあと思う。先祖帰りしてるみたいな気分になる。 子どもの頃に異言の一家で育ち、夜中の三時に強制的に家族で異言を祈ってたという方が、精神世界の探求遍歴の末に、この間 サニヤシンになって、自分で見つけて来た名前の意味は「神聖な無神論者」という。かっこいいなあと思う。 そのひとに借りた異言の本の影響で、チャクラジベリッシュの時に異言での祈りをやってみたのだけれど、昨日は真剣にやったので、よかった。 それでよかった体験を自分だけにとどめず、ハート瞑想の時間は、もう一度、第七チャクラのジベリッシュをすることを提案した。 参加者に、「困った時に、神様助けて」と思わないか?と聞くと、ひとりのひとを除いて、多かれ少なかれそれはあるという。 だからそれを表現してみたらどうなるかと、実験に誘う。 家族が創価学会だったAさんは、「自分の中に神様助けて」という気持ちがすごくある・・孤立して困ってる」という深い感情につながったようだ。泣きながらシェアしてくれた。 いつも鋭い気づきのあるSさんは、「神様助けてとお願いすると、余計に孤独を感じた」と言う。 鋭い意見だ。 助けてとお願いする限り、そこに分離がある。孤立がある。 元キリスト教徒のA君は、「神様助けてと言うと、自分が弱くなるような気がして、思わないようにしている」と瞑想会後の桜見物の時に話してくれた。確かに、第三チャクラ的には、そういうことが起こる。 離婚した元旦那が、反宗教論の論客だったYさんは、瞑想後、なんか頭のてっぺんが開いてすかすかする。このままでいいのかしら? と不安げだが、そのまま第3の目の気づきのゲートを開けて、頭から入って来るエネルギーを下に降ろしたら、変容になると勇気づける。 そうじゃない限り、いくらパワースポットに行って、上からのエネルギーを感じても、頭に少し入っただけで、変容にはならない。ただの観光旅行だ。 遠くからハート瞑想を期待して参加してくれたMさんは、「その時を生きるヴイジェィがいい感じだったし・・」と、思いつきでの第七チャクラのジベリッシュに付き合ってくれた。 頭が開いた感じはみんなしたのではないか? 瞑想後の桜見物も、ふだんより楽しめたのではないだろうか? チャクラジベリッシュは、チャクラの本質的なエネルギーを制限しているメンタルなエネルギーを解放する素晴らしい方法だ。 宇宙と、存在と、神とひとつである一体感を感じる第七チャクラを制限するメンタルなエネルギーとは、まさに一体なのに分離していると誤解して、「神様助けて」とお願いしたり、祈ったり、感謝の言葉を述べるのも、頭の上にメンタルな帽子を載せてるみたいなものだ。 「神はいない」「神も仏もあるものか?」という帽子だってある。 僕は悟りをくれない存在に対しての怒りが過去生以来何層もあるからと、プラサードに言われて、OSHOの写真に向かって、怒りをぶちまけろと言われて、毎朝鍵をもらって、OSHOアカデミーの瞑想ルームの扉を開けて、一週間怒鳴りまくったことがある。 一週間たったらプラサードから伝言が来て、やめてもいいことになったが、あれはすごい一週間だった。 自分の欲しいものをくれない存在に対しての怒り、憤り。 なんでこのちっぽけな僕の面倒を存在は見てくれないのか? もちろん子どもの頃からの傷も浮上したけれど、多くは過去生から持って来ていたものだった。 だからたぶん僕だけでなく、色々なメンタルなエネルギーを第七チャクラの上に被せている。それは第七チャクラだけのことではもちろんない。 神様を信じるとか、信じないとか、第五チャクラの信念の問題もあるだろう。しかし第七を意識してのジベリッシュは面白かった。 トルコ料理屋の二階で瞑想会していた時に、意識的にイスラム・スーフィズムにチューニングしていたことがある。 音楽を聴き、図書館で本を大量に読み、イスラム風のお祈りや瞑想も少しやった。 ある時に、チャクラジベリツシュの第七をやると、朗々とコーランのような節回しを歌ってた。 二分半トータルにやったら、あっけなく僕のイスラム・ブームは去った。 無意識に同一化していたエネルギーが解放されたのだろう。 過去世かもしれないエネルギーに、無意識に乗っ取られかけてたのに気づいたら、パタリと落ちた。 神はいない。神はフィクションだと我らがマスターがあれだけ言ってるのに、どこか無意識の深いところで、神様を恐れているのも感じる。 昨日ジベリッシュをやっていて、失敗を恐れたりする罪の意識の根源は、神への恐れだと感じた。 もう大人になって、誰も僕を叱ったり咎めるひとはいないのに、微妙に感じている罪悪感。 神様のようなものに監視されているような緊張感は、ハート瞑想を続けてなくなったが、深~いところにある何かへの恐れ。 それは日本人の集合無意識的には、神様というより世間様への恐れであるのだろうか? 日本人は世間様と言う宗教カルトに洗脳されているといったのは、敬愛するセラピストのスッダで、日本でもプーナでもアシスタントした日本人の脱条件付けのグループでは、仏壇が部屋の中で我々を監視し、僕は警官のコスプレしたり、ヤショダ扮する老母を背負う孝行息子役で、グループ中に闖入したりもして、皆の無意識を刺激した。 ホームセンターで買って来た神棚を、最期にキャンプファイアーしながら燃やしたのは懐かしい思い出。あれはすごいグループだった。 しかし、こっちに行ってしまうと、第3チャクラの個人の確立のワークが強調されるが、A君が話してくれたように個(イエロー)が確立して、補色のヴァィオレット(第七チャクラ)もはっきりしてくるのだろうか? 神戸の北野町には、日本で唯一のジャイナ教寺院があって、大理石ばりで、外国人信者たちの信仰によってか、前に訪ねた時は、確かに神聖な濃いエネルギーを感じた。 ジャイナ教は別にヒンズー教ではないので、神さま仏様を拝むわけではないが、寺院には始祖たちの像と瞑想スペースがある。 さらに北野町には、モスク(回教寺院)があって、見学もできる(これは未見) さらに少し脚を伸ばせば、大天使ミカエルの降臨しているかのようなエナジーの「神戸聖ミカエル教会」がある。 ここは皆のお祈りでもやもやしているだけのエネルギーでない、暖かいエネルギーが確かにある。 まず、僕の愛好しているロシア料理で、ボルシチとかの珍しいランチを食べて、ジャム付きのロシアンティーを飲みながら、神様について信じ込んでいる事柄をすべて紙に書き出す。信じていないことも、お願いも、すべて書き出す。 そして、まずはジャイナ教寺院に行って、ジベリッシュでお祈りしてみる。 どうせ寺院のひとたちには何を言ってるかわからない。 小声でつぶやいてもジベリッシュは、咽やチャクラの表面にある制限されたメンタルエネルギーを一瞬のあいだ壊す。 そして、帽子のように冠っていた古いエネルギーが解放されて、王冠のチャクラが輝きだす。 回教寺院やミカエル教会でも、ジベリッシュでつぶやいてみよう。そして沈黙する。 カトリック神戸中央教会(キリスト教)も生田神社もある。 歩いて回れる距離なので、歩いてる時は、第一チャクラに呼吸して、上と下をつなげる。などの瞑想をしながら。 マントラとかお祈りとか祝詞とか、型と音声で、大いなるものにつながる回路を開き、アンテナのようになる役割があるのだろうけれど、元々大いなるものとひとつである第七チャクラをカバーしているメンタルなエネルギーをジベリッシュで解放して、シンプルに第七を開いてみる。 時間が許せば、後楽園の庭園に寄って、芝生の上でシェアリングとハート瞑想。四月はつつじが花盛りだ。大いなる自然と、事物との直接交流をして楽しむ。 解散後は、カラオケでも行って、精進落とし。 といったチャクラ研究会の課外体験学習。この実験を一緒にやりませんか? 研究者求む。四月中旬日曜日。詳細はまた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018.03.30 18:11:51
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