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東京今昔物語  (写真の世界 http://wakowphoto.world.coocan.jp/ より)

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2005.12.30
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カテゴリ:昭和
貯木場-05P 83h

材木処理-02P 83h

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木場の歴史は江戸時代に遡ります。江戸城の建設には沢山の
木材が使われました。水路で運ばれてくる木材を集めて蓄える
所が、日本橋近くに設けられました。
その後、1657年の明暦の大火があり、幕府は隅田川を越えた
深川に木材業者を移転させました。それが木場の始まりです。

明治に入り東京の都市建設のための木材需要は膨大でした。
更に産業の近代化は、工場や造船のための木材を必要としました。
そのため江戸時代からの「木場」は急速に拡大し、隅田川沿いの
猿江貯木場は広大な水面を持つ貯木場となりました。

町中を縦横に走る堀割に沿って材木問屋600軒、製材工場
150カ所、原木問屋50軒があったと云います。彼らは東京
の木材需要の70%を賄っていました。
一つの業種でこれだけ多くの業者が集まっていたのは世界でも
希でした。

昭和に入り都市と産業の発展は更に多くの木材を必要としたので、
国内材だけでは賄いきれなくなり、米材や北洋材の輸入材が増
えてきました。他方、隅田川沿岸の地盤沈下のため橋桁が下がり、
大型の外国材を運ぶのに堀割の幅は狭くなり、「木場」は昭和
56年に東京湾の海浜埋立地に移転し、「新木場」となりました。

嘗ての「木場」は材木産業に携わる人々の町でした。材木屋、
筏師、川並、木挽きたちの町でした。深川の「木場」の町には
木の香りが漂っていたと云います。
彼らの手で木材は整理され、加工され、必要な所へ運ばれていきました。

最近、墨田区の東駒形の町会長さんから聞きました。その町会長
さんは、若いとき材木屋を営んでいましたが、その頃は上げ潮に
乗せて、棹一本だけで隅田川の筏を上流に運んだと云います。

今でも木場公園(旧木場貯木場跡地)の近くで木場の角乗競技が
行われますが、角乗技術は川並たちが貯木場の丸太材を並べ替
え、整理する作業の中で生まれたものです。
江戸時代から続いた深川の木場の文化の匂いは、僅かに角乗競技
に残っています。

隅田川から海浜に移転した「新木場」には、そのような材木産業
の町の風情はありません。そこには広大な貯木場と、筏を曳航
する船と、丸太を引き上げる起重機と、大型のトラックを見るだけです。

東京という大都市の材木供給基地として新しく建設された「新木場」
は、町ではなく工場団地になっています。

その新木場の姿を写真でご覧下さい。
                         (以上)





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Last updated  2006.06.20 21:38:43
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