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カテゴリ:昭和
![]() 晴れた日には今でも富士山が見える富士見坂 ![]() 彰義隊を撃った薩長軍の弾痕が残っている経王寺の山門 ![]() 西日暮里の切通しで、正面は西日暮里駅に停車中のの電車 山手線は、上野、日暮里、田端辺りで丁度と武蔵野段丘の裾を巻いて走っています。山手線の西側の台地は、上野の山からその北側の道潅山に至るまで断崖を形成していて、江戸城を築城した大田道潅が、ここに出城を構えたところです。ですから、この台地は江戸城防衛の最前線でしたが、同時に、周囲を見渡せる景観のよいところでした。 日暮里(にっぽり)という言葉には、いよいよ一日が終わるとか、お別れの時が近づくという感じがあります。街の名前にどこかロマンテイックで哀愁を含むイメージがあります。東京では今でも富士山が見えるという「富士見坂」からは、西日を受けて暮れゆく静かな日暮里の住宅街が一望できます。 しかし、日暮里駅の東側には、繊維問屋街があったり、町工場、商店街、住宅街が雑然と混在する下町です。明治になって、東北地方から上京した人々は、上野駅で降り、その周辺に住み着いて、東京での生活を始めました。そこは江戸時代からの下町とは違う俄作りの下町になりました。 尾根のように南北に延びる台地の至る所に古い神社仏閣があります。日暮里駅に近い古刹、経王寺の山門の扉には逃げ行く彰義隊を撃った薩長軍の弾痕が残っています。日暮里・谷中の総鎮守である諏方神社は断崖の縁にあり、そこから筑波山も望めるとのことです。 日暮里駅は京浜東北線、常磐線、京成本線などが通る交通の要所でもあります。地下鉄千代田線が開通したとき西日暮里駅が新設されましたが、この駅の下を通り抜けているのが道潅山の切り通しです。この道潅山通りは北上して、隅田川を渡り、荒川を渡り、足立区の北部へ通ずる尾久橋通りとなります。 近くモノレールの日暮里・舎人線が、この尾久橋通りに沿って開通する運びになっています。日暮里は東京都の北部への玄関として益々重きを成していくでしょう。古いものと新しいものが入り交じり、山の手風の小径や公園があるかと思えば、活気のある下町風の商店街がある、それが日暮里の街です。 (以上) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.07.11 22:32:07
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