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カテゴリ:昭和
![]() 写真1 開発されたお台場 フジテレビ、ショッピングとレストランのビルなど ![]() 写真2 お台場に隣接する東京国際展示場 ビッグサイト ![]() 写真3 巨大なオフィスビル トリトンスケア 先に紹介した「水都を壊した都市の産業化」(07.05.06)では、産業化を悪者として描きました。今回は、東京の都市型工業の立場から、その苦難の道を眺めてみましょう。 工業を地理的分布でみますと、隅田川沿いの城東地区には金属、機械、光学、精密、繊維、木工、雑貨など多種多様の業種が立地し、多摩川沿いの城南地区には電気、電子関連の業種が立地していました。 明治時代には、隅田川沿いには鐘淵紡績、日清紡績、浅野セメント、三菱製鋼、鉄道車両メーカーなどの大企業も操業していましたが、昭和の時代には敷地の狭隘化と公害問題が重なって、東京から撤退していきます。その結果、東京の墨田区、江東区に残ったのは大半が中小企業となりました。 また、多摩川の下流地域には早い時期から東京芝浦電気を始め、電気関連の大企業が進出すると、その下請けをする中小企業が京浜地帯に立地しました。彼ら中小企業は技術的に優れた部品やサービスで大企業を支えるようになりました。 隅田川沿いでも多摩川沿いでも、街に残って頑張る中小企業は、大企業のように規模の効率は得られませんでしたが、彼らは柔軟な受注や仕入れのネットワークを築き、技術開発や商品開発などの努力を重ねて成長していきました。その結果、城東地区も城南地区も江戸時代の情緒ある風景は消えましたが、活力ある工場地帯に変貌したのです。 しかし、昭和30年代に工場の地下水汲上げが地盤沈下の原因であるとして、工業用水の汲み上げ規制が強化されました。「首都圏の既成市街地における工業等の制限に関する法律」(昭和34年)が制定された頃が、都市型工業のピークだったのです。昭和40年代になりますと、公害問題が更に深刻になり、工場の操業に支障が出るようになりました。(昭和42年公害基本法、昭和44年東京都公害防止条例) 戦後、街の工場は雇用を増やし活気をもたらすとして歓迎されたのですが、日本の高度成長が終わる頃(昭和45年)、歓迎されざる産業となり、追い出される立場になりました。活気溢れる工場地帯の姿が見られたのは、東京オリンピック(昭和39年)の頃までで、その後は次第に東京の下町から消えていきます。 その流れに拍車を掛けたのが、都市工業地帯に対する政府の開発計画です。既存の工場地帯は公害問題があり、また区画整理するにも地権者との調整が難しかったので、政府は嘗ての工場地帯の再開発投資を後回しにしました。その代わりに、政府は臨海部、即ちウオーターフロントの大規模開発に力を入れました。 こうして生まれたのが、お台場や葛西の臨海公園であり、東京国際展示場(ビッグサイト)などの商業施設であり、海浜のレジャーランドでした。工場が消えた工場地帯の跡には、トリトンスケア・ビルのようなオフィスビルや高層マンションが、運河沿いに建ちつつあります。(写真1.2.3) (以上) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.10.03 12:13:27
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