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カテゴリ:昭和
写真1 丸子橋から見た風景 写真2 二子玉川駅から見た多摩川 写真3 丸子橋から新幹線を見る 写真4 重厚な丸子橋 写真5 二子玉川付近の多摩川夕景 写真6 六郷パブリックゴルフ練習場 写真7 六郷河原のホームレス 東京都と神奈川県の境界をなす多摩川の特性は、三つの意味でエネルギッシュなことです。 第一は、川の流れが速いことです。多摩川の水源は奥多摩ですが、水源から海に注ぐまでの間、武蔵野段丘と多摩丘陵の間を急流で流れてきた歴史があります。急流だった証拠は川底が頻繁に変化していたことと、多摩川下流には砂利石が沢山あることからわかります。 第二は、東京の、と言うより関東の、と言うより全国の先端産業のメッカの一つが多摩川沿いに発達していることです。京浜地区から多摩川を遡上するようにエレクトロニクス系の産業が細長い多摩ヴァレーに集積しています。それ故、多摩丘陵と武蔵野段丘の間に広がる多摩渓谷は、米国カリフォルニアのシリコンヴァレーになぞらえて日本のシリコンヴァレーと言われています。 第三に、多摩川の川向こうの多摩丘陵が、東京のベッドタウンとして開発され、更には独立した街に発展していることです。 多摩川は奥多摩湖から始まる川です。江戸時代に羽村取水堰で玉川上水に取水された水は、江戸市中に飲料水を供給する貴重な水でした。今でも玉川上水の水は村山貯水池を経由して東京都民の飲料水として使われています。 水資源として重要だった多摩川は、江戸時代には西方からの攻撃に備える最終防衛線でしたから、東方の防衛線であった隅田川と同じく、徳川幕府は橋を架けませんでした。もっとも橋を架けても多摩川は急流でしたから流されたでしょう。 東京人にとって多摩川が注目されたのは、関東大震災の後、東京復興に建設資材の砂利が大量に必要となり、多摩川から採取されたときでした。その後に注目されたのは、1980年前後から川向こうの多摩丘陵地帯に新興住宅地が建造され、テレビドラマ「金曜日の妻たち」の舞台になった時でした。 このとき初めて多摩川は東京の街の仲間入りをしたわけです。東横線の丸子多摩川沿いは郊外型高級住宅地として割と早くから開発されましたが、それより少し上流の二子玉川(愛称「にこたま」)は東急田園都市線の開通で急発展します。(写真1、2) 東京の「山の手」とは、江戸時代に武家屋敷のあった四谷、赤坂、麹町であり、更に明治時代以降、上流社会の人々の住居地となった目黒、渋谷、杉並、世田谷でした。その「山の手」は金妻時代になりますと、遂に多摩川を越えて多摩丘陵に達したわけです。 金妻時代の「山の手」の住人達は、新興の高給取りサラリーマンであり、車社会の新しいライフスタイルを持ち、文化活動にも積極的でした。その後、この山の手の住人を追うようにデパートなどのショッピング機能が二子玉川に進出し、新しい山の手に新しい下町が付随して独立した街に変貌しています。 それまでは東京の西方への交通は海沿いの東海道が主でしたが、その後、内陸部に都市住民の住宅団地が大々的に開発されるようになり、鉄橋は増え、貧弱だった多摩川を渡る道路橋も次々と立派になっていきます。(写真3、4) それまでは都心部の人々にとっての行楽地であった多摩川の川辺は、近隣の住宅団地に住む人々の日常の散歩の場になりました。河原のゴルフの練習場にはウィークデイでも多くの人を見かけます。(写真5) ただ、羽田空港に近い下流付近は、河原の整備が行き届いていないようです。生い茂る葦の河原にホームレスの小屋が散在しています。何よりも増水の時は危険ですし、また見苦しい風景です。(写真6) 子供の頃(昭和10年代)世田谷に住んでいた私は、夕方になると父に連れられて二子玉川に鮎釣りに出かけました。当時は自然の鮎が遡上しており、一、二時間も釣っていると結構な数の鮎が釣れたものです。また、近所の子供達と屡々二子玉川へ泳ぎに行きました。当時は多摩川は清流でした。 (以上) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.08.08 21:56:02
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