テーマ:徒然日記(22904)
カテゴリ:カテゴリ未分類
生徒たちが主体となって、お風呂屋さんの防空壕で亡くなった人たちの慰霊祭を行なったところまで、一昨日は書きましたね。 慰霊祭には生徒たちだけでなく、勿論ご近所の人たちも集まって、お地蔵さんの路地はぎっしりになりました。こういう話は広がるもので新聞記者さんも見えたそうです。翌日の新聞にも掲載されて。 それ以来命日にはご近所の人たちがお線香やお花を捧げてお参りしていたそうです。 ご近所のお祖母さんが赤い前垂れをつくって付けてあげました。 そしてほとんど毎日のようにお水をあげ、お供え物を上げていた人が救助にあたった、Hさんの息子さんでした。Hさん亡き後も父親の意志を受け継いで供養を続けていました。 そしてバブル期。ある大手不動産屋が土地買い占めにお地蔵さんがある千駄木三丁目一帯に入り込んできました。当時は地上げ屋と言いましたが、それはそれはしつこく、暴力沙汰になるほどの攻め様で、一人二人と仕方なく土地を手放していき、残るはHさん宅一軒のみとなりました。 承諾もしていないのに、塀は壊されるは、言葉の暴力も大変なものだったようです。それが連日繰り返されました。でもHさんは負けませんでした。 「先祖代々から譲り受けた大事な土地は誰にも譲れない。それにお地蔵さんはどうなる、お地蔵さんまで壊されてはたまらない」 と言って一歩も譲らず、裁判を起こし、勝利して、お地蔵さんも自分の家や土地も守り抜いたのです。 と、こんな話をどうしてこんなに詳しく知っているかといいますと、Hさんの息子さんがお地蔵さんについては一番よく知っている、と近所の方から聞いたものですから、作曲家の木下先生が是非会って話を聞いてみたいとおっしゃるので、コーラスの先生と私と三人で、お話を伺いに行ったら、こんな話も飛び出してきました。Hさんとはなんと気骨のある情熱家だろうと改めて見直しました。 そしてその年、地上げ屋の攻撃をものともせず、庶民の家とお地蔵さんを守り抜いたということで、下町人間の会から「下町人間庶民文化賞」をHさんはいただいたのです。 それをお祝いしてHさんを応援していた地域の人たちが集まり、これからもみんなでお地蔵さんを守り、戦争の話を語り継いでいこうということになりました。そこでできたのが、 『千駄木の平和地蔵を守り、戦争を語り継ぐつどい』でした。当時は3月2日のすぐ前の日曜日に集まって、当時の爆弾攻撃がどんなにひどいものだったかをみんなで話しあっていました。今も続いているでしょうか。 私たちも随分お世話になりました。実は社会科の先生の実践記録もその会の方が大事に保管されていて見せていただいたものです。この場をお借りしてお礼を申し上げます。 Hさんを紹介してくださったのも、森さんを紹介いしてくださったのもその会の世話人の一人Sさんでした。 森さんの「やねせん」にはその一部始終がなん号かに分けて載せてあることや、地上げ屋の話も載っていると聞き、特に地上げ屋の話は耳から聞いただけなので、もう一度確かめたくて、「やねせん」の事務所を訪ねました。 すぐ何号と何号に載っていると分かり、全部分けていただいて、どんなに助かったかわかりません。耳で聞くだけでなく活字で読むことは本当に安心感を与えるものです。森さん、編集者の皆さん本当にありがとうございました。 またまた長くなりました。まだ本論の構成詩「千駄木の平和地蔵さん」には触れていませんが、次回にさせていただきます。では又・・・。続く・・・。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|
|