【続】里山について考える
先日「南山問題市民連絡会」の方々6名との話し合いに参加してきました。一昨年(2009年)の秋から継続的に開催している話し合いで、今回で16回目になります。南山問題市民連絡会(代表:安澤さん)については、ここに詳しいので割愛しますが、私の理解では、南山をもっともっと緑豊かな街にしたいと願う団体ということになります。この「緑豊かな街づくり」、実は事業者である組合の開発コンセプトでもあり、連絡会と組合が目指しているベクトルはほとんど同じ方向を向いているわけですが、それが何故これだけ長い間、話し合いが続けられているのか。人はみなそれぞれ独自の判断基準を持っています。至極当たり前の話です。Aさんはよく手入れされた里山が好みでも、Bさんは何も手を入れないありのままの自然が好みだったり、あるいは整然とした街並みが好きな人もいれば、雑然とした街並みが好きな人もいる。およそ世の中の風景、家、家電製品、車...、あるいは世の中のさまざまな活動にたいして、人の判断基準は異なると考えるのが「自然」です。その好き嫌いが個人的に楽しむ領域であれば、それはそれとして大いに楽しんでいただければ良いわけですが、こと街や風景に関しては、それが多くの市民の公共財となりますから、様相は自ずと異なります。南山は私有地の開発行為(組合施行土地区画整理事業)ですが、あれだけの規模で、しかも地形的に多くの市民の目に触れることを避けられない街ですから、街全体が公共財であるという認識が不可欠であり、当然組合は、そうした認識に立った上で、7割もの常軌を逸した減歩負担を覚悟し事業を進めているわけです。しかし、連絡会の方々が主張している「緑豊かな街」と、組合が目指している「緑豊かな街」の間には、相容れない「何か」が横たわったまま推移しているように思われます。ところで、街づくりは大きく捉えると、バブル崩壊前までの行政主導型から、崩壊後台頭する住民参加型の街づくりにシフトし、そして今、更に進んで住民主導型街づくりの実践期に入っています。行政主導期における市民は傍観者で済んだ。できた街の不具合を糾弾することで街づくりに参加してきたとも言えます。住民参加期はどうか。自分たちが計画づくりの一端を担った街づくりに責任を感じ始めますが、それを実行するのはまだ行政で、住民参加は双方のアリバイづくりにとどまってしまった。そして住民主導期の今、街づくりそのものが自分たちの責任において行われる時代に入ってきているわけです。行政に文句を言うだけの時代から、自ら街づくりに取り組む時代に入ってきたと言えようかと思われます。そういう意味では、地権者の方々で組織された組合は、まさに住民主導型街づくりの最先端を走っているということになるわけですが、この間私の頭の中で気になっている「何か」は、連絡会の方々の心の中にまだ捨てがたくある「行政主導型まちづくりを糾弾するレベル」、言い換えると、街づくりの主体者としての意識が脆弱であることにあるのかもしれません。どうやってブレークスルーするか。時代は今「地域主権の時代」へと大きく動いていますが、真に地域主権の時代を担う責任感と実行力のある住民と、そうした住民を育むための「仕掛け」が問われているような気がしています。