「物」が豊かになると「芸術」は衰えるか?
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芸術は心の叫びであり、人間そのものであり、私たちが長く尊敬してきた活動でもある。「芸術家」というのは一見、世離れしているけれど、音楽にしても映画や絵画にしても私たちの心を強く打ち、感動をもたらすものである。
今、音楽に親しもうとすると、クラシックは遙か昔に消え去り、ジャズ、シャンソン、タンゴ、歌謡曲も聴かなくなった。ルノアール、ゴッホから横山大観まで絵画も死に、トルストイや夏目漱石も遠い昔になった。
オーケストラもマニア向けになり、ピアノの音がうるさいという苦情も聞かなくなった。バイオリンもフルートもさっぱり忘れた。藤間流、西川流、勅使河原、裏千家はどうなったのだろうか? 聞くと言えば一流の建築家と女優の結婚などの世話話だけである。
長谷川一夫、岸恵子、そして外国にはリチャード・ウィドマークやクリスチーネ・カウフマン・・・銀幕を飾る多くのスタート、心から感動させる映画が日常生活の友人との話に出てきたし、年齢を超えて共通の話題になった。
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日本人の生活から芸術が消え去った理由は「豊かになったから」と言われる。でも、芸術は「心の叫び」であり、それがなぜ「豊かになった」と言うことと関係しているのだろうか? ショパンは貴族のサロンで即興曲を弾いてご婦人を喜ばせ、あの絢爛豪華な安土城や大阪城のふすまを飾ったのは狩野永徳だった。芸術は生活の苦しさからも生まれるが、贅沢からさらに精神的に解放されたものが誕生するのが常である。
もし、日本人がわずかな豊かさを手に入れたから芸術が生活から消え去ったのなら、もともと日本人には「魂の叫び」がなかったのではないかと思う。単に生活が苦しいから、人生が辛いからひとときの安らぎを求めて芸術に走ったというならそれは現実逃避のためのものであり、決して「人間の崇高な精神活動」とは呼べない。
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豊かになったから日本人の人生から芸術が消え去ったのではない。私たちはお金の亡者となり、心を失い、ウソをつき、家畜のように生活をしているからにほかならない。かつて平安時代、貴族とて現代の人より貧しかったかもしれないが、桜、あじさい、そして秋の花の時期に長谷寺を訪れて親しい人の治癒を祈った。
テレビを見ると目的も何も持たない政党が、ほぼ同じことを叫び、完璧にウソをついた政党の党首がまだしゃべっている。新幹線に乗ると「我が社は地球に優しい」という愚劣な宣伝を強制的に見させられる・・・なんということだろう。
明るい生活を送ろうと電灯をつけると叱られる。その理由を聞くと経団連と電力会社を儲けさせなければならないらしい。昼休みに電気をつけて本を読もうとすると課長が来てスイッチを切り、真っ暗になる。「お前はただ黙って働けば良い。本など読む必要は無い」と言う。
暖炉で小説を読み、ピアノを楽しみ、時に美術館に行く。踊りを見ながら食事をし、ゴルフ場の紅葉のすばらしさに感嘆したいけれど、どれもこれも今では人目を忍ばなければならない。タバコは追放されて生気に満ちた顔は見られなくなり、少しでも甘いものを食べようとすると「メタボ!」と注意される。織田作之助はどこにいったのか?
今から20年前から、「節約」によって日本国は2分の1に縮小し、所得は460万円から410万円に下がり、今や国民平均の旅行は1年でわずか1泊二日。「国と国民の生活を悪くするための政治」が続くぐらいなら、国会と霞ヶ関を10年ほど閉鎖して、制約のない自由な人生を送ってみたいものである。
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芸術は心の叫びである。その叫びは金亡者、イジメ体質、ウソつきから生まれることはない。豊かであるか人生が苦しいかではなく、現在の日本に芸術はおろか、精神活動すらなくなってしまったのは、「日本社会自体を喪失した」ことによって芸術は滅びたのだろう。
今日も、私の心はバッシングを恐れて自由に筆も運べない。
(平成24年11月30日)
武田邦彦