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バス停地名学のすすめ

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墨田区

2007.12.28
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カテゴリ:墨田区
(前回からのつづき)

『寺じまの記』は『墨東綺譚』連載の前年の作品ですが、改めて目を通すと、作中に紹介される雷門からの「京成乗合自動車」のルートが、現在の[有01]系統とほぼ同じようであることに気がつきました。そして地蔵坂バス停についてはこんな記述があります。

「次に停車した地蔵坂というのは、むかし百花園や入金(いりきん)へ行く人たちが堤を東側へと降りかける処で、路端に石地蔵が二ツ三ツ立っていたように覚えているが、今見れば、奉納の小さな幟が紅白幾流れともなく立っている」

バスはこの後、荷風を玉の井へと運んでいきます。

地蔵坂通り商店街はやがて水戸街道に出ます。これを浅草方向に少し歩くと、東向島1丁目交差点から地蔵坂通りと並行して墨堤通りへと伸びる道幅の狭い商店街がありますが、ここはかつて「鳩の街」と呼ばれた特飲街、通称赤線地帯の跡地でもあります。もとは空襲で玉の井を焼け出された私娼街の業者がこのあたりに移ってきたことに始まり、昭和33年の売春防止法成立により消滅しました。当時の様子は荷風の作品のほか、吉行淳之介『原色の街』や『驟雨』などに詳しく描かれています。

かつての赤線地帯とはいえ、現在も鳩の街の名は商店街の名として消えずに残っています。歩いてみると、狭い通りの両側に様々な商店が所狭しと並び、昭和のまま時計の針が止まってしまっているかのような空間が延々と続いています。その商店街から一歩裏道へ入ると、所々に赤線時代の面影を残すスタイルの建物が、今も僅かながら残されている様子を見つけることができます。

鳩の街商店街を抜け、再び墨堤通りを地蔵坂へと戻ります。さらに「旧墨堤之道」を歩き進むと、正面に白髭神社、その先が白髭橋となります。『墨東綺譚』に使われた木村荘八の挿絵の中に、白髭橋を描いたものがありますが、独特の重厚なアーチ橋は震災復興橋として昭和6年に架橋されたものですから、作品当時と同じ姿を現在も見ることができます。

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最終更新日  2007.12.28 16:17:47
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2007.12.25
カテゴリ:墨田区
(前回からのつづき)

地蔵堂の脇からは、墨堤通りと同じ高さで並行する通りが北へ延びていますが、その道端に「旧墨堤之道」と書かれた案内柱が立っています。かつてはこの通りが堤防上の道だったようで、バス停も古くはこの通りに面して立っていたのでしょう。冒頭に紹介した『墨東綺譚』の一節にある「待合所の板バメと地蔵尊との間」という記述にも、それで納得がいきます。

地蔵堂の前から東向島1丁目と3丁目の間を水戸街道へ抜ける通りが地蔵坂通り商店街で、地蔵堂前からほんの少しだけ下り傾斜が見られるのが、地蔵坂です。江戸時代の堤防修復工事の際にできた坂で、坂そのものの存在感はきわめて薄いですが、地蔵坂の名はこの周囲の俗称として今も定着しています。

商店街は毎月「4」の付く日が縁日、すなわち月に3度の縁日があるようで、露天などで賑う様子は、昭和の下町の香りが存分に残るこの商店街ならではの、情緒溢れる光景になるものと思われます。商店街から枝分かれする路地へ足を踏み入れれば、そこに暮らす人たちの息遣いが肌で感じられるほどの、生活感に満ち溢れた街並みがどこまでも続いています。

しばらく歩くと、左手に寺島図書館があります。寺島も住居表示によって地図上から消滅した町名のひとつですが、寺島の名から思い起こすのは、やはり荷風の作品『寺じまの記』(昭和11年)ということになります。

(次回へつづく)

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最終更新日  2007.12.25 21:27:43
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2007.12.22
カテゴリ:墨田区
(前回からのつづき)

バスは国際通りから雷門通りへ入り、吾妻橋で隅田川を渡って墨田区へ入ります。このあたりは都営バスの牙城ともいえるエリアで、左右のいたるところに都営バスの緑色の車体を目にしますが、そういう中で私を乗せた京成バスは、前後を都営バスに挟まれるようにして、粛々と進んでいきます。

三ツ目通りに入ると源森橋を渡り、言問橋東詰から水戸街道を北上していきます。ここまでのルートは、『墨東綺譚』の主人公が雷門から乗り込んだ寺島玉の井行き乗合自動車と同じ道筋です。

「吾妻橋をわたり、広い道を左に折れて源森橋をわたり、真直に秋葉神社の前を過ぎて、また姑(しばら)く行くと車は線路の踏切でとまった」

ここでいう「線路の踏切」は、東武線の東向島駅(荷風の当時は玉の井駅)手前の踏切を指しますが、[有01]系統は秋葉神社の少し手前にある向島3丁目交差点から左へ入り、墨堤通りへと入ります。墨堤通りは、その名の通り隅田川の堤防上の通りなので、視界が高くなります。右手に向島の住宅密集地を見下ろしながら墨田公園、隅田堤とバス停が続き、首都高速向島出口の前を過ぎると、今回の目的地である地蔵坂バス停に到着します。

バスを降り、墨堤通りを反対側へ渡ると、正面に小さな地蔵堂が見えます。子育地蔵と呼ばれ、文化年間(1804~17)の隅田川堤防修復工事の際に、土中から掘り出された地蔵尊を祀っているといいます。11代将軍の徳川家斉は、鷹狩りの帰途にこの地蔵をお参りしたようで、堂を建てて地蔵を安置するようになったのはそれ以降のことと伝えられます。

(次回へつづく)

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最終更新日  2007.12.22 22:06:46
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2007.12.20
カテゴリ:墨田区
みなさん、こんにちは。
いつも「バス停地名学のすすめ」をご訪問いただき、ありがとうございます。

おかげさまで本ブログも、連載150回が間近となってまいりました。そこで、ちょうど年の暮れということもありますので、いつもはひとつのバス停を前後編の2回に分けてご紹介していますが、今回は「150回記念・年末拡大版」として、全4回シリーズをお届けしたいと思います。

取り上げるのは、墨田区の「地蔵坂」バス停です。坂道編としては、初めて下町地域からのピックアップとなりました。それでは早速、お楽しみ下さい。

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バス停データ
◆所在地:墨田区 ◆路線:京成バス[有01]系統

まずは永井荷風『墨東綺譚』(昭和12年新聞連載)の一節から。

「吹き通す川風も忽ち肌寒くなって来るので、わたくしは地蔵坂の停留場に行きつくが否や、待合所の板バメと地蔵尊との間に身をちぢめて風をよけた」

「坂道編」を始めて以来、訪ねるバス停は必然的に山の手地域に集中していましたが、隅田川の東側、いわゆる墨東地区に京成バス(正しくは京成タウンバス)[有01]系統の地蔵坂バス停があります。玉の井への往復に浅草からのバスを利用した荷風の作品には、「地蔵坂の停留場」として何度か紹介され、荷風ファンの間ではよく知られたバス停です。今回は荷風と同じように、浅草から墨東へのバスに乗り込んでみました。

[有01]系統の起点は浅草寿町ですが、この路線を利用するときは、予め時刻表をよく調べておくことをお薦めします。というのも、土日は40分間隔のダイヤですが、平日になると一日6便と本数が激減するからです。生活路線というよりは、浅草詣での行楽路線ということなのでしょう。

地下鉄田原町駅のある交差点のそばに、浅草寿町バス停はあります。ちょうど私の背丈より少し高い程度の小ぶりな丸型のバス停が、歩道にひっそりと立っています。平日の午前中に2便しかないうちのひとつ、9時30分発のバスは、私一人を乗せて静かに走り出しました。

注)『墨東綺譚』の「墨」は、本来の字と異なります。

(次回へつづく)

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最終更新日  2007.12.20 21:18:57
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2007.07.22
カテゴリ:墨田区
(前回からのつづき)

もともと中居堀は、江戸時代に深川、本所方面への給水に利用された本所上水の一部であり、万治年間(1658~61)の頃の完成といいます。その後、井戸の普及などにより享保年間(1716~36)の頃に廃止され、灌漑用水に転用されるとともに、曳船の川として旅人を運ぶ役割を担っていました。本所上水の本流は、現在も京成線と並行する曳船川通りがその跡にあたり、曳船の名は既にご存知の通り、東武線、京成線の駅名としても残されています。

中居堀通りを南へ歩くと、すぐに東武亀戸線の踏切りがあり、左手は小村井駅です。旧吾嬬村(吾嬬町)の大字だった小村井の地名が地図上から消滅したのが昭和5年ですから、この駅名も70余年にわたり失われた地名を後世に伝え続けたということになります。

踏切りの少し先には、平安時代末期に勧請されたと伝えられる小村井香取神社があり、その東側一帯が、江戸時代に梅の名所として知られた小村井梅園の跡地になります。築山のまわりに池を廻らした広大な庭園があったといいますが、明治43年の水害で惜しくも廃園になりました。現在は香取神社境内に100本余りの梅を集めた「香梅園」が整備され、毎年梅の季節になると、かつての梅園を偲ぶ梅祭りが催されるとのこと。

帰りは小村井駅から亀戸線に乗り、都心に残されたローカル線気分を味わうのも悪くないですね。

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最終更新日  2007.07.22 22:16:08
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2007.07.19
カテゴリ:墨田区
バス停データ
◆所在地:墨田区 ◆路線:都営バス[上23]系統 他

みなさん、こんにちは。

上野松坂屋前から浅草、押上を経て、総武線平井駅までを結ぶ都営バス[上23]系統は、下町大横断路線です。この路線には、少し前まで私が個人的に「都内屈指の難読バス停」に数えていた木下川小学校前バス停がありました。木下川と書いて「きねがわ」と読みます。墨田区東端の荒川沿いで、都内では三河島と並び皮革産業の街としての歴史を持つ地域です。古くは「きけがわ(木毛河)」と称し、それが訛って「きねがわ」になったとのこと。荒川対岸の葛飾区東四つ木には、木根川の旧町名がありましたが、これは読みやすくするために漢字表記を変えてしまったものといいます。平成15年、木下川小学校が統合により廃校となり、バス停はどうなることかと動向に注目していましたが、翌16年、東墨田会館前に改称されてしまいました。(因みに、葛飾区側には京成バスの木下川薬師バス停があります)

その[上23]系統で、十間橋通りを北上し、明治通りと交差する場所が中居堀バス停です。交差点名も中居堀となっていますが、本来の中居堀跡の位置は、すぐ東隣りにある警察署入口交差点の場所になります。ここで明治通りと南北に交差する直線道路は、現在も中居堀通りの名で呼ばれ、南は北十間川境橋へ、北は木根川橋手前で荒川土手に突きあたっています。

地図を見るとはっきりわかりますが、中居堀交差点から北へ伸びる八広はなみずき通りが、中居堀通りから三〇メートルほど離れてぴたりと並行していますが、これは中居堀を通行する曳船を牽引した車の通路だった名残と思われます。また、荒川土手に突きあたる場所から地図上に定規を当ててその先を辿ると、四ツ木駅西側から北へ延びる道路が中居堀跡であることがわかり、ここでも曳船用の道路が堀跡に並行して亀有方面へ続いていた様子が見られます。

(次回へつづく)

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最終更新日  2007.07.19 22:26:28
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