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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

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2005年12月27日
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カテゴリ:歴史・考古学
 昨年の今頃に自分の勉強のために連載を開始したアメリカの通史だが、結局あと一回を残して年を越す事になりそうだ。

・・・・・・・
 ケネディ暗殺によって第36代大統領に昇格した副大統領リンドン・ジョンソンは、若々しいケネディとは対照的な老練な政治家だったが、保守的な南部テキサス州出身ということもあって北東部のリベラル・インテリ層には人気が無かった。就任当初ジョンソンは前任者ケネディの政策を引き継いで、所得税引き下げや黒人公民権のための雇用機会均等法(1964年6月)などの成立に尽力した。
 1964年の大統領選挙を前に、ジョンソンは「偉大な社会」をスローガンに、貧困や差別の撲滅を内政目標として掲げた。対する共和党は超保守派(公民権法反対、労働組合運動の制限、社会保障の切り捨て、ヴェトナムやキューバに対する核兵器使用を主張)のバリー・ゴールドウォーター上院議員を候補とする。ジョンソンが大差で再選を果たすが、ゴールドウォーターは予想に反して4割近い得票を得て、南部や西部での保守主義の根強さを示すこととなる。これは同じ民主主義に根差した社会ながら、社会民主主義が優勢となっていくヨーロッパとの乖離を示すものと受け取られた。アメリカ政治の中心は伝統的な北部や東部から、ラテンアメリカやアジアからの移民(全移民の8割以上)流入で人口が急増する南部や西部に移ってゆき、その反動としての保守化でもあった。これはアメリカ経済が対欧州から日本を始めとするアジア、そしてアメリカの経済支配が行われていた中南米との関係に重心を移したことと軌を一にしている。
 当選したジョンソンは「偉大な社会」実現のための政策を次々に実行していく。老齢年金や社会保障制度の整備、出身国による移民制限差別法の撤廃、教育の充実、公害対策、都市住宅整備省の設置などである。都市整備省長官にはロバート・ウィーヴァーが指名されたが、彼はアメリカ史上最初の黒人の大臣となった。

 しかしこうしたジョンソンによる内政上のリベラルな政策は、彼のヴェトナム介入の前に霞んでしまうこととなった。実際のところ、アメリカ政府が1966年にヴェトナム戦争に費やした費用は、上記の貧困対策費の20倍に達していた。
 ヴェトナムでは南北統一を目指す社会主義国・北ヴェトナムが、親米軍事政権の支配する南ヴェトナム国内でのゲリラ活動(ヴェトコン)を支援していた。1964年8月、アメリカはトンキン湾で北ヴェトナム海軍の攻撃を受けたと主張、議会はほぼ全会一致決議で、必要な軍事的対抗措置を取る全権を大統領に付与した。のちに「北ヴェトナム軍による攻撃」はねつ造であったことが判明し、また弱腰を対立候補に攻撃されていたジョンソンがこの決議により「強い大統領」という姿勢を示す事が出来、その年末の大統領選挙に利した、と指摘されている。
 ジョンソンは1965年に北ヴェトナムに対する「北爆」を開始、ヴェトナム戦争に本格的介入を始める。アメリカ軍はヴェトナムに爆弾の雨を降らせ、1968年にはヴェトナムに派遣されたアメリカ軍は55万に達した。これはもはや単にヴェトナムの内戦ではなく、共産主義の拡大(「ドミノ理論」)に対するアメリカの戦いと位置付けられた。しかしヴェトコンや北ヴェトナムは、ソ連の支援を得つつ、ジャングルに潜むゲリラ戦術によって装備で勝るアメリカ軍に対抗する。
 テレビという情報媒体の普及によって、この密林での見えない敵に対する戦争は国民に克明に伝えられ、ゲリラ掃討と称してヴェトナムの村を焼き払うアメリカ軍の姿に、アメリカ国民は戦争の意味や正義に疑問を持つようになっていく。

 ジョンソンの施策にも関わらず貧困や黒人に対する差別は依然として続き、以前はその九割が南部に集中していた黒人がアメリカ全土の都市部(スラム)へ移住していたこともあって、単に南部の問題では済まなかった。毎年夏になると、恒例のように大都市では人種間対立による暴動が起きた。非暴力闘争や白人との融和を掲げるキング牧師とは対照的に、マルコムXは黒人優位を説く人種主義運動である「ブラック・パワー」運動を率い、1965年に彼が暗殺されたのちには「ブラック・パンサー」団による武装闘争にまで発展する。
 高等教育の充実により1960年代にアメリカの学生数は400万から800万と倍増したが、1964年にはカリフォルニア大学バークレー校でのフリー・スピーチ運動をきっかけに大学の官僚主義に対する紛争が始まり、ヴェトナム戦争拡大に伴う学生の徴兵猶予停止によって大学紛争は反戦・反人種差別運動と結びついた。1968年始めには100以上の大学で4万人以上の学生がデモに参加するまでになり、またヨーロッパや日本など全世界の大学に波及する。
 ジョンソンが公約した「偉大な社会」は実現にほど遠く、また彼の始めたヴェトナム戦争の行き詰まりでその是非が問われるや、ジョンソンへの支持率も急激に低下した。1968年3月、ジョンソンは不利を悟って次期大統領選挙への不出馬を宣言、人気のあった民主党のロバート・ケネディ候補暗殺事件もあって、その年11月の大統領選挙では共和党のリチャード・ニクソン候補(元副大統領)が辛勝した。

 1968年に北ヴェトナムとの交渉が始まっており、ニクソンは戦争を有利に終結することに苦慮したが、出口は見えなかった。国内では反戦運動が激化して1969年11月のワシントンにおける反戦集会には30万人が参加する。1970年4月、ヴェトコンの根拠地と目されたカンボジアにアメリカ軍が侵攻すると、いよいよ反戦運動は盛んになった。
 しかしオハイオ州立ケント大学での反戦デモに州兵が出動してデモ隊に発砲、4人の学生が死亡した事件を境として、平和的な大規模反戦運動は下火になっていき、「新左翼」は少数の過激派による暴力的な地下活動、もしくは婦人解放・環境保護運動へと移っていく。また労働者階級や「サイレント・マジョリティ」は、学生を中心とする反戦運動に対して右傾化していった。
 平和的運動によって戦争を終わらせることが出来ないという無力感は、ヒッピーや「フラワー・チルドレン」といった若者文化に表れた。こうした動きの背景には、1970年のポルノ禁止の完全撤廃、避妊薬の開発、堕胎禁止を憲法違反とする1973年の最高裁判決、離婚率の倍増、同性愛に対する禁忌意識の低下などに象徴される、社会通念の大きな変化があった。1969年7月21日、アメリカが人類初の月面着陸を成功させたことも、新しい時代の到来を感じさせた。

 ニクソン政権では、安全保障担当補佐官であるヘンリー・キッシンジャーが外交政策を担当した。共産主義陣営では1960年代始めにスターリン批判や中国の核兵器開発をめぐってソ連と中国が対立し国境紛争まで起きていたが、中国はソ連との対抗上、1971年に朝鮮戦争以来のアメリカとの敵対関係を終結し(同時に台湾に代わり国連代表権を得る)、1972年にはニクソンが訪中する。一方1968年の「プラハの春」に象徴される共産主義の行き詰まりから、核ミサイルを大量に配備して北極圏を挟んでアメリカと睨み合っていたソ連も西側との融和に転じ、米ソ間で核軍縮協定(SALT I)が調印された。かつて反共主義者として鳴らしたニクソンはソ連をも訪問し(1972年)、現実外交を推し進める。
 この緊張緩和の動きに乗ってニクソンはヴェトナム戦争の「ヴェトナム化」を進め、南ヴェトナム駐留米軍の規模を順次縮小、1972年には3万人にまで縮小した。1973年1月にはパリ和平協定が調印され、米軍はヴェトナムから完全撤退した。5万8千人の戦死者を出し、アメリカにとって史上最長の戦争だったヴェトナム戦争はここに終結した。東南アジアの小国に勝利を収められなかったアメリカは、超大国・「世界の警察官」としての威信と自信を打ち砕かれた。なおヴェトナムでは北ヴェトナム軍の侵攻により1975年に南北統一が実現する。
 ニクソンの融和外交は、1973年に起きた第四次中東戦争及びアラブ諸国による対西側石油禁輸(オイル・ショック)を機に中東にも及んだ。キッシンジャーの活躍で戦争を調停し、翌年にアラブ諸国との和解が成立して石油禁輸は解除されたが、以後アメリカはイギリスに代わって中東外交を主導することになる。一方南米ではアメリカの影響力維持に意を注ぎ、チリの民主的選挙で社会主義的なサルヴァドール・アジェンデ政権が誕生すると、アウグスト・ピノチェト将軍率いる軍部のクーデター(1973年9月)を支援、アジェンデ政権を崩壊させた。

 こうした外交的成果の一方、ニクソン政権の内政は安定しなかった。先鋭化する国内対立の中にあって、リベラル派からは保守的とされ、保守派からは基本的にジョンソン政権のそれを受け継いだ政策が批判された。経済的にも、日本や西ドイツなどの輸出攻勢によって貿易収支が1930年代以来の赤字に転落、1971年にはブレトン・ウッズ体制の破棄を宣言しドル為替を変動相場制に移行せざるを得なくなった。超大国アメリカの「世界の盟主」としての地位は、泥沼のヴェトナム戦争に象徴される政治的なものにとどまらず、経済的にも揺らぎ始めたのである。
 1972年の大統領選挙でニクソンは60%以上の得票を得る大勝で再選を果たしたが、その選挙期間中ニクソン陣営はウォーターゲイト・ビル内にある民主党本部を盗聴していた。選挙に勝ったもののニクソン政権は二期目当初からこのウォーターゲイト疑惑に揺れていた。裁判所がこの事件へのニクソンの関与を認め、また「ワシントン・ポスト」紙のボブ・ウッドワード記者らが情報提供者の協力で事件の詳細を報じるにつれ、ニクソンの立場は苦しくなった。共和党内でもニクソンを見放す動きが出て、1974年8月9日、ニクソンは史上初めて任期半ばにして大統領職を辞し、ヘリコプターでホワイトハウスを去った。高潔たるべき大統領の疑惑と辞任という異常事態は、アメリカの価値観の崩壊と、そしてメディアという「第四の権力」の力を見せつけることとなった。

 ニクソン辞任後、副大統領のジェラルド・フォードが昇格し第38代大統領に就任したが、失業問題や財政赤字問題に有効な対処も出来なかった彼はソ連との核軍縮協定以外さしたる成果もあげることなく、1976年の大統領選挙で敗れ去った。勝ったのは民主党候補でジョージア州知事、しかしほとんど無名だったジェイムズ(ジミー)・カーターだった。カーターは「ワシントンの政治風土に毒されていない、建国以来の質実なアメリカ的価値観」を売りにして辛勝した。
 カーターはその特徴を外交面でも強調し、人権重視を謳った。このためカーター政権はチリやアルゼンチン、エチオピア、南アフリカでの独裁や人種差別に対して厳しく臨んだが、一方でこの姿勢は親米陣営を揺るがすこととなり、例えば独裁政権下にある韓国やフィリピン、ニカラグアでの混乱や影響力低下を招くことになった。とりわけ痛手だったのは、1979年のイラン革命である。親米的な皇帝独裁政権は、ホメイニ師率いる民衆のイスラム革命によって打倒された。
 カーター外交の成功として挙げられるのは、一部のアフリカ諸国との接近、パナマとの良好な関係の樹立(アメリカが租借するパナマ運河の返還協定)、そして最大のものとしては1979年にアメリカの仲介で実現したイスラエル・エジプト和平がある。共産圏とは前政権以来の宥和外交を継続して1978年に中国との国交正常化を達成し、またソ連とは核軍縮協定(SALT II)の調印に漕ぎ付けたが、1979年末のソ連軍によるアフガニスタン侵攻で雪融けムードは一瞬にして吹き飛んでしまった。
 国内でも、1979年の第2次オイル・ショックによる1930年代以来の大不況や、日本の輸出攻勢による国内産業の不振と失業率上昇によってカーターの支持率はみるみる低下した。さらにテヘラン(イラン)でイスラム原理主義者が起こしたアメリカ大使館人質事件の武力解決にも大失敗して不人気は決定的となり、1980年の大統領選挙では共和党候補のロナルド・レーガン(カリフォルニア州知事)に大敗して一期でその地位を追われることになった。
 なおカーターは退任後も平和外交に活躍し、2002年にノーベル平和賞を受賞、「史上最強の『元』大統領」と呼ばれる。





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最終更新日  2005年12月30日 01時39分51秒
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