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カテゴリ:芭蕉の紀行文をよむ
我が家の水仙畑。 *初雪や水仙の葉のたわむまで はせを NHKラジオ第2、古典講読の時間、佐藤勝明先生の「芭蕉の紀行文を読む」。笈の小文が終り、その旅の続きの更科紀行に入ります。どうも集中して聴けなかったので、いつにも増して先生の意図と離れた解釈をしているかもしれないけど。 読み進んできた「あつめ句」は終了。貞享4年秋、芭蕉庵の四季をまとめた34句からなる自薦句集で、鹿島の記と対のものとして作られ、杉風に贈られた。 貞享に入る前後から、配列や構想に目覚めた芭蕉の考えは 元禄4年、1691年の「猿蓑」、元禄15年、1702年刊行の「宇陀法師」=許六・李由編では、猿蓑は「俳諧の古今集」と位置づけ、師説に曰く・・・・と芭蕉の俳諧論をまとめたらしい。 許六らは芭蕉の教示でこのような考え方に基づき、猿蓑を編集した。 =集で大切なものは模様である。四季に分けた上でよからぬ句を並べているとあっては、興ざめなことである。俳諧は、ありきたりの編集方針ではいけない・・・・という教えも実行した。 芭蕉は作の人であると同時に論の人でもあった。次回からは「猿蓑」を!
『笈の小文』も、前回の源平の戦いがあった須磨。「人々の悲嘆は千年ののちも、白波の寄せるのにさえ憂いがこもっている様子である。」で終了。この作品にはいくつかの問題点(研究材料)がある。 ・風雅論、紀行論、旅論などが挟まれていて ・前書きふうに地名が書かれているのに句がないところも ・似た発想の句が並ぶ ・須磨の海岸で唐突に終わる それらを鑑みると 1・未定稿との考えも 2・もともと断片的だったのを乙訓が編集した 3・これはこれで一つの作品である の、3つの代表的な考えになるらしい。 本文に書かれていない部分も、書簡や懐紙などでわかるものも多いらしい。 では、高野について書かれた「枇杷園随筆」より = 高野の奥に登れば焚場さかんにして、法のともし火消る時なく、坊舎地をしめて仏閣いらかを並べ、一印頓成の春の花は寂寞の霞の空に匂ひて鐘の声鈴の響きも 肝にしみておぼえ、猿の声、鳥の啼にも腸を破るばかりにて御廟を心静かに拝み、骨堂のあたりにて 思ひやうあり 此処は多の人のかたみの集まれる所にして 我が先祖の鬢髪をはじめ親しくなつかしきかぎりの白骨もこのうちにこそ思ひこめそぞろにこぼるる涙をとどめかねて *ちちははのしきりに恋しきじの声 翁 <解 釈>高野の奥の院に登れば、見事な在り難いこの地の春の花は霞の空に匂い、鐘の声鈴の響きの中心静かに御廟を拝した。納骨堂にたたずめばつらつら思うこと がある。ここはたくさんの人の形見の集まる場所。我が先祖やなつかしき人たちもここに、と思うと、だたわけもなく涙がこぼれてならないのだった。 *この地で雉の声を聞いていると父や母がしきりに恋しくなる 見事な句文であるが、乙訓の手にした原稿にはこれはなく、ただ「高野」とのみあり、万菊の句があるのみ。何らかの意図があったのか、ただ乙訓に渡らなかっただけなのか。 版本の「笈の小文」には「更科記行」がついている。独立したものであるのは、芭蕉の自筆校本があるのでわかる。
『更科紀行』 須磨を4月20日に発った芭蕉は、翌21日、生田川上流の布引の滝に登り、「能因の塚」「入相の鐘」の金竜寺を見て、23日、京に入る。詳しく旅程を記した伊賀の惣七への手紙でわかる。 古今集の能因の歌*山里の春の夕暮れ来て見れば入相の鐘に花ぞ散りける その後、5月上旬まで京に滞在し、杜国と別れ、5月中旬に岐阜に行く。下旬には大津へ。6月中は岐阜に滞在して俳諧興行を行ったりして、7月に尾張に移り、俳諧興行をする。 そして8月11日、岐阜を出発し信濃をめざす。強行軍ではあったが、15日の夜、更科の里に着いた。 芭蕉は更科紀行とは別に「更科姨捨月の弁」という文を残した。 本文 「更科姨捨月之弁」 =更科紀行の要約をした句文集 *俤や 姨ひとり泣 月の友 *いざよひも まだ更科の 郡哉 <解 釈>平家物語の月の名所の名にさそわれて、姨捨の月を見たいと心誘われ8月11日に美濃の国を立ち、道が遠いのに日数が少ないので、暗いうちから歩き始め、暗 くなるまで歩きとおして強行軍をしたおかげで、15夜の月に間に合うことができた。山は八幡という里の近く、すさまじく高いというわけでもなく険しくもな い、ただ奥深い感じの山だった。かつて「なぐさめかねつ」と歌われた理由も知れば悲しい思いがわきあがって、なぜ老いた人を捨てるなどということをするの だろうかと思えば、涙もこぼれるのだった。 古今集の和歌*わが心なぐさめかねつ、更科や姨捨山に照る月を見て *姨捨の月を見ると捨てられて泣く老女の面影を友としてこの月を見よう *十六夜という言葉の躊躇する思いのように、まだ更科の地にとどまっている。
=「更科紀行」本文 旅立ち さらしなの里、おばすて山の月見ん事、しきりにすゝむる秋風の心に吹さはぎて、ともに風雲の情をくるはすもの、又ひとり越人と伝。木曾路は山深く道 さがしく、旅寐の力も心もとなしと、荷兮子が奴僕をしておくらす。おのゝ心ざし尽すといへども、駅旅の事心得ぬさまにて、共におぼつかなく、ものごとのし どろにあとさきなるも、中ゝにおかしき事のみ多し。 <解釈>更科の里、月を見ようrとしきりに秋風がすすめるので、同じ風狂の友の越人と同行 することにする。木曽路は山が深く道が険しいというので心配して荷けいがお供を一人つけてくれた。それぞれ考えはあるものの、慣れない旅のことおぼつかな いことが多く、てんやわんやの楽しい出立だったのでした。 今週はここまででした。
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最終更新日
2015.11.24 07:01:03
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