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カテゴリ:日本と世界の文学論
また麓に、一つの柴の庵あり。すなはちこの山もりが居る所なり。かしこに小童あり、時々來りてあひとぶらふ。もしつれづれなる時は、これを友としてあそびありく。かれは十六歳、われは六十、その齡ことの外なれど、心を慰むることはこれおなじ。あるはつばなをぬき、いはなしをとる(りイ)。またぬかごをもり、芹をつむ。或はすそわの田井に至りて、おちほを拾ひてほぐみをつくる。もし日うらゝかなれば、嶺によぢのぼりて、はるかにふるさとの空を望み。木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見る。勝地はぬしなければ、心を慰むるにさはりなし。あゆみわづらひなく、志遠くいたる時は、これより峯つゞき炭山を越え、笠取を過ぎて、岩間にまうで、或は石山ををがむ。もしは粟津の原を分けて、蝉丸翁が迹をとぶらひ、田上川をわたりて、猿丸大夫が墓をたづぬ。歸るさには、をりにつけつゝ櫻をかり、紅葉をもとめ、わらびを折り、木の實を拾ひて、かつは佛に奉りかつは家づとにす。もし夜しづかなれば、窓の月に故人を忍び、猿の聲に袖をうるほす。くさむらの螢は、遠く眞木の島の篝火にまがひ、曉の雨は、おのづから木の葉吹くあらしに似たり。山鳥のほろほろと鳴くを聞きても、父か母かとうたがひ、みねのかせきの近くなれたるにつけても、世にとほざかる程を知る。或は埋火をかきおこして、老の寐覺の友とす。おそろしき山ならねど、ふくろふの聲をあはれむにつけても、山中の景氣、折につけてつくることなし。いはむや深く思ひ、深く知れらむ人のためには、これにしもかぎるべからず。
NHKラジオ古典講読「方丈記」は、方丈の庵の説明に続き、いよいよ楽しい極上の一人居の記が続きます。 日野の山のふもとに、森番の小屋があり、そこにいる童子が時々来てくれる。暇なときには一緒に遊行する。その子は十歳、私は六十歳で年は離れているが気が合う。 茅花を抜き、岩梨をとり、むかごを盛り、芹を摘む。ふもとの田んぼで落ち穂を広って輪飾りを作る。 (茅花を抜き、から、一つ一つ動詞を変えている。田井とは大きな田んぼのこと。) 天気の良い日は峰によじ登って、はるかに故郷の都の空をながめ、木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師の方を見る。 勝地は主なければ、心をなぐさむるに障害はない。 (和漢朗詠集から) どんどん行けそうな日は、日野から峰伝いに炭山、笠取、岩間に詣で、王朝文学の石山を拝み、琵琶湖が瀬田川に流れ込む場所で、交通の要所である粟津の原を踏み分けて、伝説の歌人蝉丸が琵琶を奏でていたという逢坂山の跡を訪ね、田上河を渡って猿丸太夫の墓を訪ねる。 帰りには、その季節の折々に桜狩り、紅葉狩り、蕨を採り、木の実を拾って土産にする。 (険しい峰を踏破する健脚で、何泊かしたかもしれない。粟津の原は京に入る要所で、更級日記の作者もそこを通ったと書いているらしい。1020年のことで、来年千年記だそうです) 静かな夜は窓の月に故人をしのび (故人は別れてきた友。生きている人でもこういう。和漢朗詠集242番、白楽天「千里外個人の心」 猿の声に袖をうるおす (和漢朗詠集457番) くさむらの蛍は、遠く真木のかがり火に見える (和漢朗詠集465番・堀河百首=難波江の草葉にすだく) あかつきの雨は、おのづから (新古今551番) (西行法師山家集 しぐれかと寝ざめの床にきこゆるは嵐にたえぬ木の葉なりけり) 山鳥の声、近くに来る鹿、世間から離れているのを思っている。 (これもまた良い) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019.07.03 11:21:34
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