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カテゴリ:日本と世界の文学論
雨に濡れて咲くバラのアンジェラちゃんは、我が家のニューフェイスです!つぼみがいっぱい♪ 岩波の「図書」6月号が来ました。斎藤美奈子先生の「文庫解説を読む」は5月に続いて「永遠の0」などについて触れています。「永遠の0」は、作者の言動がカンに障るので、読んでないのでなんともかんともだったけど、沢山の人に読まれている、支持されている、存在というのは、人々の心に響く何かがあるのでしょう。 5月号で、美奈子先生は 「翼賛的な解説(群)は逆にあぶない」という題で 戦争児童文学の2つのタイプ 「火垂るの墓」=不幸な子ども」型と「少年H」=立派な非国民型、について。 2つは、同じ神戸を舞台に同じ1930年生まれの少年の戦争を書いている。 この2つのタイプの戦争児童文学は、反戦平和教育に一定の役割を果たしたが、植え付けたのは厭戦的な気分だけだったのではないか、と美奈子先生は書いている。 火垂るの墓の解説は尾崎秀樹。 講談社文庫の少年Hの解説は、「過剰解説物件」。上巻は立花隆、澤地久枝、椎名誠の推薦文。解説は阿川佐和子。下巻の解説は井上ひさし。さらに、「少年Hの反響」として、雑誌や新聞に載った書評の山が紹介されている。上下巻の解説と推薦文と反響を合わせて全10本で、しかも執筆しているのは並みいる著名な文化人。いったいこの翼賛的な絶賛体制は何なのだろうか。 と美奈子先生は書いています。 戦争児童文学が描かなかったもの。 その後、ミリオンセラーを記録した百田直樹の「永遠の0」は、戦争児童文学が描かなかったものを書いた。免疫のなかった読者は興奮。講談社文庫の解説で児玉清は書いた。 =<読みはじめて暫くして零戦パイロットの話だと徐々にわかってきたとき、僕の胸は破裂するほどの興奮に捉われた><僕の夢、いや当時の僕と同じ子どもたち全員の夢といってもいいのが、少年航空兵として一日も早くお国のために役立つことだったし、零戦のパイロットとして戦うことだったからだ>。= 少年H、が頑として描かなかった価値観。を書いた永遠の0。 そして6月号。 =解説の児玉清が<『永遠の0』と出逢えたときの喜びは筆舌に尽くし難い。それこそ嬉しいを何回重ねても足りないほど、清々しい感動で魂を浄化してくれる稀有な作家との出逢いに天を仰いで感謝の気持ちを表したものだ>とまで熱狂した理由は何だっただろうか。=と、美奈子先生は書く。 そして、では、戦後の多くの日本人は、どんな戦争文学を読んできたのか、とつづく。 「ビルマの竪琴」「二十四の瞳」・・・・ そこに大江健三郎が編、解説した新潮文庫版原民喜の「夏の花」。集英社文庫版はリービ英雄の「鑑賞」。 作家の内的動機を重視する大江の解説。近代文学史の中に作品を位置づけたリービ英雄。二つを比べると作品を外に向かって開いてるという点でリービ英雄のほうが勝っている。 「夏の花」の、「あの八月六日の朝」という想像を絶する体験を誰もが共有している上で成り立つ・・・ように、私たちが慣れ親しんできた戦争文学は、まったく日本的な文脈の中で書かれ、読まれてきた。解説もそれを自明のこととして、狭い世界に閉じこもってきたのではあるまいか。『永遠の0』の解説の力強さを見てほしい。これじゃ負けるわ。 という美奈子先生でした。題は「文学的すぎる解説は戦争には負ける」。 永遠の0、読んでないけど、私は読んでも児玉清さんみたいな感動を覚えないと思う。戦争を知っている児玉さんだからの高揚感なのではないかしら?戦争児童文学にどっぷり浸かって子ども時代を過ごした私です。 全然関係ないけど、子どもの頃、教科書の予算を作るのは自民党、教科書を作るのは共産党、できた教科書を使うのは社会党・・・ ということをどこかで聞いたことがあります。今はどんな感じなんでしょうね。良い時代でした。
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最終更新日
2016.05.30 20:43:46
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