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カテゴリ:横浜市泉区歴史散歩
次に訪ねたのが「専念寺」。
ここも我が藤沢市に隣接する横浜市戸塚区深谷町1021。 旧東海道沿いの「戸塚区」👈リンク は既に歩いていたのである。 寺号標「浄土宗 深谷山 青陽院 専念寺」。 ![]() 脇門入口には元禄6(1693)と刻まれた石道標(尖頭角柱)。 高155㎝(塔身部)、幅35㎝、厚24㎝。 正面:「(梵字)婦可や藥師 青陽院江之道」 右面:「深谷山」 左面:「専念寺」と 刻まれていた。 ![]() 「法然上人像」。 ![]() ズームして。 「ただ一向に念佛すべし」と。 ![]() 勲八等瑞寶章を受勲された川邊氏御兄弟の墓碑であろうか。 ![]() そして手前に墓地、その奥に本堂。 ![]() 「鎌倉権五郎景正と専念寺の深谷目薬師 前九年の役の鎮定功労者陸奥守源頼義の嫡男八幡太郎義家は陸奥守となり赴任したが、 奥州の覇者清原武則家の家督争いにまきこまれ、まれに見る大乱となった、戦場は 沼冊からさらに要害の地金沢冊に移るが義家軍の苦戦の報が都に届くと義家の弟新羅三郎義光 (甲斐源氏武田祖)が京から来援 これに力を得た義家が総政撃し非常な苦戦の末、寛治元年 十一月(一〇八七)、金沢冊を陥落させ、家衡と武衡を討つことに成功し、後三年の役はようやく 終冪となった。 この戦いに弱冠十六歳の鎌倉権五郎は金沢冊の戦いで敵の矢に左目を射抜かれると戦友三浦為次が 駆け寄り、景正の顔に足を掛け、その矢を抜こうとするや景正は「武士の顔に足を掛けるとは」と 怒り刀を抜いて切りかかったと言う。 凱旋後景正は守り本尊の深谷薬師に治療の願をかけ、寺の前の深谷薬師で目を洗ったところ、 たちまちにして目の傷が癒えたと言われる。 深谷薬師は霊験あらたかな目薬師如来として信仰厚く、今も十ニ年毎に開扉している。 鎌倉時代に活躍した大庭、俣野、梶原一族も戦国大名上杉謙信も鎌倉権五郎景正の子孫である。」 ![]() そしてこちらが「かまくら道」側の正門で「宇田川」に架かる赤い欄干、 親柱に擬宝珠(ぎぼし)を載せた橋。 ![]() 橋の名は「専念寺橋」。 ![]() 「宇田川」の下流方向を見る。 この先1.5km程先で「境川」に流れ込む川である。 ![]() 本堂への参道を進む。 ![]() 正面に「山門」の冠木門が。 ![]() 「是者鎌倉権五郎景正守本尊 ふかや薬師青陽院江之道」と刻まれた石碑。 ![]() 寺号標石「浄土宗 深谷山 専念寺」 ![]() 「鎌倉権五郎景正守本尊 薬師如来」 鎌倉権五郎景正の守本尊薬師如来(行基作)を安置していると。 ![]() 「山門」と「本堂」。 ![]() 「本堂」。 「当寺は ある大長寺の末寺でした。開山は大長寺と同じ 上人で、鎌倉 伝えられています。その後文治年間(1185~89)景正の末裔である梶原景時が再建し、福泉寺と いって当時は真言宗でした。 永禄年中(1558~69)住職であった長順法師が感誉存貞上人より浄土の教えを聴き、その 素晴らしさに感銘し、以来浄土宗に改宗し、一心院専念寺と呼ばれていました。」と 「専念寺」👈リンク のHPから。 ![]() 扁額「専念寺」。 ![]() 「本堂内陣」。 ![]() 新装なった「納骨堂」。右手に「六地蔵」。 ![]() 「六地蔵」を正面から。 ![]() 両脇に市松模様の描かれたガラス窓の奥の堂内にも地蔵様が。 ![]() 蓮の花のエッチングガラスの姿も美しく。 エッチングガラス(彫刻ガラス)とは 硝子表面にサンドブラスト処理(金剛砂等を圧縮空気で吹き付けて削る)を行いさらに フッ素加工(薬品処理)を施したガラスのこと。 ![]() 「本堂」手前の2本のイトヒバの大木は切られていた。 専念寺の本堂は一見すると近代以降の建築のようであるが、享和元年(1801)の再建になる、 という。昭和44年(1969)には屋根の大がかりな改修が行われ、部材が新しいものに 置き換わっている、と。 ![]() 墓地内の「永代供養塔」。 ![]() 「南無阿弥陀仏 ○源空」、「俱會一処(ぐえいっしょ)」と。 「源空」は法然(ほうねん)上人の諱(いみな・生前の実名)。 「俱會一処」とは「たとえこの世で大切な方との別れを迎えようとも、南無阿弥陀仏とお念仏を おとなえする者どうしは、阿弥陀さまのお迎えをいただき、必ず俱(とも)に一つの 処(ところ)、すなわち西方極楽浄土でまたお会いすることができるのです」という 教えであると。 ![]() 墓地内の「永代供養塔」から「本堂」を見る。 ![]() 枯山水の庭園の中の「十三重塔」とその奥に「客殿」、「庫裡」が。 ![]() 正面が「客殿」。 ![]() 「庫裡」、「寺務所」。 ![]() 「会館」。 ![]() 「トイレ」。 ![]() 次に隣の山の上にある「三嶋神社」に向かった。 「専念寺」の川沿いのカイズカイブキの生け垣も見事に刈り込まれていた。 ![]() 三嶋神社参道入り口の専念寺側にある「石碑群」。 「川邊勝三郎君頌徳之碑」。横浜市と合併したこの地域、大正村の村長だった人物のようだ。 ![]() 富士塚の富士講碑。 ![]() 「富士元一講長 中講義川邊徳次郎君之碑 登山参拾参回」。 ![]() 「富士仙元大菩薩 元一○照?」(照の文字を○で囲っている?)。 ![]() 「小御嶽 后尊 大天狗 大権現 小天狗」。 ![]() 「石碑群」の前の橋は「宇田川」に架かる「宮前橋」。「宮」とは三嶋神社のことであろう。 ![]() そして「三嶋神社入口」碑。 ![]() 石段を上って行く。 ![]() 竹藪の前に「三嶋神社」があった。 ![]() 「三嶋神社」の石の鳥居。 ![]() 鳥居を潜って進む。 ![]() 「社殿」。 大正3年(1914)築。 ![]() 扁額「三嶋神社」。 ![]() 「三嶋神社 祭神 大山咋命 鎌倉権五郎景政 所在地 戸塚区深谷町一〇ニ六番地 宮司 中川 港 由緒 今より約七百七十余年前の文治年間に梶原平三景時が創建したものである。 景時はその祖、鎌倉権五郎景政が崇敬していた専念寺を再建するに当り傍の丘陵を開拓して 社殿を建て景政の神靈をまつり相殿に伊豆三嶋神社を勧請して御靈社と稱した。 後に至り社名を三嶋神社と改め現在に至った。社殿については寛延二年十二月八日 (今より三百余年前徳川時代)の棟札があり現在の社殿は大正三年三月三十日新築され 昭和四十九年十月修理改築されたものである。」 ![]() 水引虹梁の上の中備(なかぞえ)に龍の彫刻がおかれていた。 ![]() 右側の「木鼻」は獅子鼻、獏(ばく)鼻。 ![]() 左側の「木鼻」。 ![]() 「社殿」の廻廊の両側にある彫刻(左側)、鷲の姿であろうか。 ![]() 「社殿」の廻廊の両側にある彫刻(右側)。 ![]() 「社殿」前から境内を見る。 ![]() 境内の「稲荷社」。 ![]() 「秋葉神社」。 火除けの神・秋葉大権現を分祀する。 ![]() 「地神塔」(文久元年(1861年)銘)。 大地を司る神様を祀る。 ![]() 「大六天神社(大六天様)」。 ![]() 名木古木指定「スダジイ」。 ![]() 名木古木指定「樅(モミ)」。 ![]() 名木古木指定「檜(ヒノキ)」。 ![]() そして竹林。 ![]() 「三嶋神社」からの帰路に「専念寺」の「本堂」を裏から見る。 ![]() そして再び「専念寺」の生け垣と「宇田川」、前方に朱の欄干の「専念寺橋」。 ![]() ハクセキレイ(白鶺鴒)に似ているが ![]() そして「横浜市 消防訓練センター」の案内板を見つけたので行ってみた。 ![]() 坂を上っていくと左手にあったのが「横浜市消防局 消防訓練センター」入口。 この訓練センターでは、消防学校教育として次の教育を実施していると。 ・新採用職員教育 新採用の消防職員に、消防業務に必要な基礎的知識・技術を修得させるとともに、 「自ら考え行動できる職員」を育成。 ・現任教育 活気ある強力な組織を作るため、経営・運営責任者に対する教育や、救助隊員等の養成教育、 各種資格取得講習等を幅広く実施。 ・消防団員教育 それぞれの職責と階級に応じて、消防団の活動に必要となる規律、活動要領、安全管理などの 教育を実施。 建物内に見学用ブース等はないのであろうか? ![]() 門の前の道路を進んで行くと左手に、様々な訓練用施設が確認できた。 ![]() 隊員が消防自動車の前でミーティング中? ![]() 訓練用タワー。 ![]() 反対側には消防自動車や救急車の姿も。 ![]() ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.05.25 16:27:06
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