|
カテゴリ:旧東海道53次を歩く
『旧東海道を歩く』ブログ 目次 『戸塚宿 澤邊本陣跡』。 澤邊本陣は戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つ。 本陣創設時の当主、「澤邊宗三」は戸塚宿の開設にあたって 幕府に強く働きかけた功労者であると。 『明治天皇戸塚行在所址』の碑も立っていた。 『羽黒神社』 羽黒神社の石鳥居には「大正三年」銘があり、関東大震災(大正12年(1923年))の 10年前に建てられている。関東大震災で倒壊しなかった石鳥居であると。 『羽黒神社社殿』 戸塚に鎮座する羽黒神社は八坂神社とともに戸塚宿の鎮守。 澤邊河内守信友が、 弘治2年(1556年)に澤邊家の故郷である出羽国の羽黒大権現を 勧請し祀ったのが始まりと。その後、澤邊家は戸塚本陣となっており、戸塚宿澤邊本陣跡奥に 鎮座している。羽黒神社は6本の銀杏の木に囲まれた神社であり、稲荷社があり、 2基の庚申塔が建てられていた。 戸塚消防署交差点の先右手にあったのが『海蔵院』。 鎌倉円覚寺の末寺で、南北朝期の創建。現本堂は昭和61年に再建され、本尊釈迦牟尼如来を中心に、 十一面観音像、正観音像、開山方外宏遠像、もちあがり地蔵を安置。 他に山門(木造)鐘楼堂(昭和37年に再鋳)がある。 旧東海道(旧国道1号線)沿で、戸塚消防所脇の坂を上がった左手の少し高台にあった。 道路から上がってくると、自然で緑も残り、落ち着いた雰囲気のする場所にあるお寺。 山門の横に遍照金剛と刻まれた木食観正碑(文政4年、1821年)がある。 山門の上部には左甚五郎作と言い伝えられている竜の彫刻がある。 墓地には、俳人志行の墓(寛政5年、1793年)、旅の途中戸塚宿で没した藩士の墓などがある。 臨済宗圓覚寺派。 その先右手には『八坂神社』。 戸塚八坂神社は、戸塚郷の庄司内田兵庫源政親が元亀3年(1572)創建。 その後元禄3年(1688)に内田佐衛門尉源政利が再興、明治初年社号を八坂社と改めたと。 『お札まき』解説板。 お札まきは、七月十四日の八坂神社の夏祭りに行う踊りで、同社の元禄再興とともに始まったと 伝えられています。この踊りあ、江戸時代中期、江戸や大坂で盛んに行われていましたが、 やがて消滅し、現在は東海道の戸塚宿にだけ伝え残されています。 男子十数人が姉さんかぶりに襷がけの女装をして裾をからげ、渋うちわを持ち、 うち音頭取り一人はボテカズラをかぶります。音頭取りの風流歌に合わせて踊り手が 唱和しながら輪になって右回りに踊ります。踊り終わると音頭取りが左手に持った 「正一位八坂神社御守護」と刷られた五色の神札を渋うちわで撒き散らします。 人々は争ってこれを拾って帰り、家の戸口や神棚に貼ります。神社境内で踊り終わると、 町内各所で踊り、神社に戻ります。 風流歌の歌詞に「ありがたいお札、さずかったものは、病をよける、コロリも逃げる」という 文句があることから、祇園祭と同様な御霊信仰に基づく厄霊除けの行事であることがわかります。 神札を路上に撒き散らして人々に拾わせる御符配りは、現在では極めて珍しく、 民間信仰資料として貴重です と。 明治元年の明治天皇還幸にあたっては、当社境内に内侍所が奉安されたと。 『八坂神社の由来』 元亀参年六月郷の庄司内田兵庫源政親が牛頭天王社を草創勧請したものであるがいつしか 社殿敗壊と真躰の神器は草もうの中に散在し止むなく地中深く埋め祭祀を歟くこと 弐百年に及んだ。内田氏の末葉内田佐衛門尉源政利これを憂い元禄元年矢部村庄司河原氏の 霊夢により土壊を起し神躰を得てその一再興をはかり祭祀を行った。 明治初年、八坂社を改め更に昭和七年九月十九日八坂神社と改称した。 祭典は七月七日拾四日まで行事は七月十四日無病息災を祈願して行われる。 お札まきは町内男子拾名が女装し渋団扇を打ち、原始的踊をしつつ五色のお札を中天に撒く。 拝殿。 神楽殿か? 道路わきの食堂で昼食。時間は12:40。 カツカレーを楽しむ。 『冨塚八幡宮』。 石鳥居を潜る。 源頼義・義家父子が前九年の役平定のため奥州下向の折りにこの地に露営した際、 夢の中で応神天皇(誉田別命)及び富属彦命の神託を授かり、その加護によって戦功を収めたため、 延久4年(1072年)富塚山中腹に社殿を造り、両祭神を勧請したもの。 明治6年(1873年)に郷社に列した。境内裏山(富塚八幡緑地)に富属彦命の墓と伝えられる 古墳があり、これを「富塚」(富塚古墳も参照)と呼んだことが「戸塚」の由来とされている。 また、全国の戸塚姓・富塚姓の祖先とされる戸塚(富塚)一族が平安時代にこの地に 住んでいたことから、当社を全国の戸塚姓・富塚姓の祖霊神としている。 氏子地域は戸塚区・泉区・栄区・瀬谷区の4区(昭和44年(1969年)までの戸塚区域)。 拝殿への長い階段には神主の姿が。 神輿庫には宮神輿が納められていた。この宮神輿は1843年に造られたもの。 『拝殿』。 現在の本殿は1843年、拝殿は1934年に造営されたと。 『稲荷大明神』。 『上方見付跡』 江戸方見附から、約2.2km距離にある戸塚宿京方の出入り口。 現在は道の両側に1.5mほどの石の囲いがあり、昔と同じように 京に向かって左に松の木、右に楓の木が植えられている。 五十三次 戸塚の浮世絵は色あせて。 『大六天神社』。 戸塚宿の上方見付を過ぎたところに第六天神社があった。 第六天神社とは元々は第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたものであるが 明治になって神仏分離の際に、多くの第六天神社ではその社名から神世七代の第6代の 面足命・惶根命(オモダル・アヤカシコネ)の夫婦神に祭神が変更されたと。 『扁額』。 上方見付を出た大坂下には庚申塚があり、多くの庚申塔が並んでいた。 日光東照宮でおなじみの見猿聞か猿言わ猿の「三猿」が彫られています。 かつて、この辺りには、坂を上れず立ち往生した車の後押しする仕事があったとか。 大坂台交差点。 『おおさか(大坂)』石碑。 坂の途中にあった横浜市が設置した石の標識。 「佐野の馬、戸塚の坂で二度ころび」という江戸川柳にも引き合いに出されたほど 東海道でもよく知られた場所である。昔は一番坂、二番坂の二つの急な坂が並んだ道であったが、 昭和の初めに改修され、なだらかな一つの坂になったと。 ・・・その3 ・・・に戻る ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.04.26 15:49:48
コメント(0) | コメントを書く
[旧東海道53次を歩く] カテゴリの最新記事
|