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カテゴリ:鎌倉市歴史散歩
『鎌倉散策 目次』👈リンク
【鎌倉の寺社リスト】👈リンク 十二所神社に入る金沢街道沿いの「地蔵尊」。 今から176年前の弘化2年(1845年)と刻まれていると。 ![]() 「鎌倉ものがたり 十二所 鎌倉市の北東端に位置する地域で、昔は「十ニ郷ヶ谷」ともいわれたようです。十二村の村 だったのでこういう名前がついたのだとか、熊野神社の十二社があったからだとも いわれています。 十二所には落ち着いた雰囲気の社寺や果樹園があり、ここから東へ進んだ先の朝夷奈切通しは、 鎌倉の自然を象徴するスポットの一つです。その名は朝夷奈三郎義秀という武士が一夜で この峠を切り開いたという伝説からついたと言われています。 漫画「鎌倉ものがたり」の中ては、多くの謎を秘めた一色家のばあや「大河原キン」が住む、 「鎌倉の秘境」として描かれており、山の神に人身御供を捧げる行事や、裁きに手心を加えて もらうために閻魔大王に袖の下を送る「冥途講」など独自の文化が残る地域として 描かれています。」 ![]() そして次に訪ねたのが「十二所神社(じゅうにそじんじゃ)」。 古い石灯籠の先に石段がありそこを上った先に石鳥居。拝殿が見えた。 鎌倉市十二所285。 ![]() 石灯籠(右)。 ![]() 石灯籠(左)。 ![]() 「石鳥居」と「拝殿」。 ![]() 「拝殿」。 十二所神社(じゅうにそじんじゃ)は十二所の鎮守社。中世には三浦十二天(『吾妻鏡』)、 近世期には十二天社(『新編相模国風土記稿』)・十二天明神社、または熊野十二所権現社とも 称された。 創建年代は定かではなく、弘安元年(1278年)との伝承があるが、寿永元年(1182年) 8月11日の条には北条政子の出産に際して、奉幣使が派遣されたとの記述が(『吾妻鏡』)、 さらに8月13日の条には十二所神社のほか諸社に源頼家誕生を祝って神馬を奉納した旨 が記されている(『吾妻鏡』)ことなどから、遅くとも12世紀末までには確立していたと 見られる。 古くは、現在の光触寺境内にあったと伝えられる(『新編相模国風土記稿』)が、天保9年 (1838年)に現在地に再建された。当時、別当寺院を務めていた明王院所蔵の記録 『十二所権現社再建記』によると、この再建事業は、氏子三十余軒による土地・用材の寄進と 土木開墾の奉仕によるものであるという。 明治新政府の神仏分離政策や廃仏毀釈の動きにより現社名に改称され、1837年(明治6年)、 十二所地区の鎮守として村社に列せられた。 神社の名前は「じゅうにそう」だが、この神社の名を元にしたとされる周辺地域の地名は 「じゅうにそ」であり、何故違うのかは不明。とウィキペディアより。 御祭神 天神七柱 地神五柱 境内末社 山の神 疱瘡神 宇佐八幡 地主神 九月第一日曜日十時より例祭が開催されると。 ![]() 蟇股の見事な彫刻。 ![]() 「ウサギ」の彫刻。 鎌倉市内の神社で、この部分に龍神や鳳凰などが彫られていることはよくあるが、 「ウサギ」が彫られているところは、珍しいのでは。 ![]() なぜ「ウサギ」なのか、理由はわかっていないが、熊野神社・熊野十二所権現社等の ![]() 扁額「十二所神社」。 ![]() 「地之神社(大地大神)」と書かれた木札が。 ![]() 舞殿 ![]() 「十二所神社」には4つの境内社があった。 ![]() 下の写真左端の境内社は山の神。右側の石の祠にある宇佐八幡と並んでいるのは 疱瘡神。当時天然痘が流行り病だったために村人が祈りを捧げたと。 ![]() 境内社「山の神」。 ![]() 「山の神」の社の横にやぐらの中に入っている石の小祠が「疱瘡神(左)」と 「宇佐八幡(右)」とされていると。 疱瘡神は「ほうそうしん・ほうそうがみ」と読み、疱瘡(天然痘)を擬神化した悪神で、 疫病神の一種とされていた。 今でこそ天然痘は根絶されたが、江戸時代後半までは非常に怖い病気であったのだ。 「宇佐八幡」は、三大八幡宮の1つであり八幡神を祀っている。 ![]() 拝殿の左側に少し離れて小祠があった。 これが、地主神(地土神社・大地主神)。 ![]() 「拝殿」を斜めから。 ![]() そして車を駐めさせて頂いていた「峰本」で昼食をとる。 鎌倉市十二所154−1。 ![]() 店の入口。 ![]() 「天ぷらせいろ」を楽しんだのであった。 ![]() そしてこの先にあった「大江稲荷」も訪ねた。 県道204号線・金沢街道から少し入った場所に朱の鳥居が見えた。 鎌倉市十二所114。 ![]() 入口にあった案内板。 「大江稲荷 祭神は大江広元公である。 源頼朝が鎌倉府を開いた際、政所の初代別当(長官)として頼朝の右腕を務めた人物。 初午祭では、神主ではなくご本尊の大江広元木像を祀る。 十ニ所の五大堂明王院のご住職が、読経供養する。」 ![]() 朱の鳥居のある石段を上って行った。 ![]() 赤地に白抜きの「正一位 稲荷大明神」と書かれた幟が並んでいた。 ![]() 二の鳥居。 ![]() 扁額「大江稲荷」。 ![]() 社殿の前に石灯籠が。 ![]() 社殿。 政治行政の面から源頼朝を支えた右腕、大江広元を祀っている。 この十二所には、この大江稲荷に祀られる大江広元、源頼朝の右腕であった梶原景時といった 智将、頼朝挙兵成功の立役者、上総介広常らの有力御家人が屋敷を構えていたと。 ![]() 内陣。 ![]() 狐様が大小ニ体ずつ。 ![]() 大江広元の墓と伝わる五層塔。 ![]() そして車に戻り、次に訪ねたのが「光触寺(こうそくじ)」。 手前には「滑川」に架かる「光触寺橋」が。 ![]() 「光触寺橋」。 ![]() 「滑川」上流側。 ![]() 「滑川」下流側。 ![]() そして前方に「光触寺」の「山門」が姿を見せた。 ![]() 寺号標石「時宗 光触寺」。 ![]() 「鎌倉三十三観音霊場 第七番札所、鎌倉二十四地蔵霊場 第五番札所」碑。 ![]() 「山門」。 「山門」は文化年間(1804年~1818年)に村民が建てたものとされ 当初は茅葺屋根であったが大正12年瓦葺きに吹き替えられたと。 ![]() 「山門」手前の右手の石碑。 ![]() 「頬焼阿弥陀」碑。 『頬焼阿弥陀縁起』二巻(国重文)は、比企ヶ谷にあった岩蔵寺の阿弥陀如来像の霊験を描いた 伝説の絵巻物。 その阿弥陀如来像が現在の光触寺の本尊だと伝えられ、「頬焼阿弥陀」と呼ばれている。 縁起によると、1215年(建保3年)に鎌倉へ下向した運慶が、町局(まちのつぼね)の 依頼で彫ったのだという。 『新編鎌倉志』によると、縁起二巻の筆者は藤原為相、絵は土佐光興。 下巻奥書には、僧の靖厳が所持していたが、光触寺に伝説の阿弥陀像が安置されていることを 知って、1355年(文和4年)に寄進したことが記されているらしい。 ![]() 「本堂屋根改修記念」碑。 ![]() 「山門」の「時宗 光触寺」木札。 ![]() 左側には「重要文化財 頬焼阿弥陀」木札。 ![]() 扁額「岩蔵山」。 ![]() 「山門」を潜ると石畳の参道が前方に。 両脇には新旧の墓石が並んでいた。 ![]() 正面にあったのが時宗開祖「一遍上人」像。 ![]() 「光触寺」は弘安元年( 1278年)に創建された寺院で、開基は"時宗開祖一遍上人"、 開山は"作阿上人"と言われている。 作阿上人はもともと真言宗の僧であったが、一遍上人が弘安5年3月1日遊行の途次、 鎌倉へ入られたとき聖人に帰依して時宗に改めた。 光触寺は以来およそ700年、念仏の道場となって今日に及んでいる と。 ![]() 祈る姿を正面から。 一遍本人や弟子たちを”時衆”といい”時宗”となったのは江戸時代以降のことであると。 時宗は浄土宗の一宗派で阿弥陀仏への信・不信を問わず念仏を唱えれば、往生できると説いたと。 ![]() お顔をズームで。 ![]() 「宗祖 一遍上人像」碑。 ![]() 「光触寺(こうそくじ) 時宗の開祖・一遍上人が開基(寺の創立者)と伝えます。 本尊の木造阿弥陀如来及び両脇侍立像(頬焼(ほおやけの)阿弥陀)には、盗みの疑いを かけられた法師の罰の身代わりになり、頬に焼印が残ったといわれる伝説があります。 本堂の前の「塩嘗地蔵(しおなめじぞう)」は、六浦(現・横浜市金沢区)の塩売りが 朝比奈峠を越えて鎌倉に来るたびにお地蔵様に塩をお供えしたといい、いつも帰りには 無くなっていたところからその名の由来があります。昔は金沢方面から塩が入ってきた ことが分かります。 ●宗派 時宗 ●山号寺号 岩藏山光触寺(がんぞうざん こうそくじ) ●開基 一遍上人(いっぺんしょうにん) ●開山 作阿上人(さくあしょうにん)」 ![]() 「本堂」。 ![]() 扁額「光觸寺」。 ![]() 内陣。 光触寺の本堂に安置されているのが、本尊阿弥陀如来三尊であり、その厨子は関東管領 足利持氏が奉納したもの。 来迎仏と申し、阿弥陀仏を中心に、左に観音、右に勢至菩薩を祀ります。 阿弥陀仏は一般に「頬焼阿弥陀」として知られており、寄木造りで漆箔が施され玉眼入りです。 阿弥陀仏は一メートル、脇侍観音が60センチ、勢至菩薩が60センチで、阿弥陀仏は僅か左足を 前に出して来迎印を結んでおります。 観音は蓮台を捧げ、勢至は合掌をしており、この様な形式の仏像は鎌倉時代の初めから多く 造られました。 観音像は快慶、勢至像は堪慶作で、運慶の阿弥陀如来像とともに国重要文化財となっています。 ![]() 「本堂」を斜めから。 ![]() 歴代上人の墓石群であろうか。 ![]() 「塩嘗地蔵(しおなめじぞう)」が祠の中に。 ![]() 「塩嘗地蔵(しおなめじぞう)」碑。 ![]() 六地蔵背後の大きな像が「塩嘗地蔵」。 今から176年前の弘化2年(1845年)と刻まれていると。 元々は近くの県道沿いにあったのだと。 ![]() 六地蔵の前には塩の袋が奉納されていた。 ![]() 境内の小さな池。 ![]() 以前頂いた「鎌倉三十三観音霊場 第七番札所 光触寺」の「聖観世音」の御朱印です。 ![]() 以前頂いた「鎌倉二十四地蔵霊場 第五番札所 光触寺」の「塩嘗地蔵尊」の御朱印です。 ![]() 境内の脇の道に出て「光触寺」を後にしたのであった。 ![]() ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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