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JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.06.29
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カテゴリ:寒川町歴史散歩
【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次​​​

私の住む神奈川県藤沢市は、鎌倉市、横浜市戸塚区・泉区、大和市、綾瀬市、海老名市、
寒川町、茅ヶ崎市の6市1町と市境を接している。
我が藤沢市内の寺社旧蹟巡りはほぼ完了した後、長引くコロナ禍で国内旅行、海外旅行が
制限される状況から、隣接する6市1町の寺社旧蹟巡りを決意したのであった。
そしてこれまでに「​横浜市泉区・戸塚区​」👈リンクを制覇しその後「​綾瀬市​」👈リンクそして
「​大和市​」👈リンク、「​鎌倉市​」👈リンク、「​海老名市​」👈リンク、「​​茅ヶ崎市​​」👈リンクを
完了し、今回の『寒川町の寺社旧蹟を巡る』への〆の挑戦をスタートしたのであった。



「寒川町の寺社旧蹟を巡る」のスタートは「海老名市の寺社旧蹟を巡る」の最終日の帰路に
立ち寄ることから始まったのであった。
正面に「倉見神社」の石鳥居。
熊野社(くまのしゃ)と称していたが、明治2年(1869)に神明社(しんめいしゃ)と合併し、
倉⾒大神となった。その後、昭和18年(1943)に倉見神社と改称された と。
神奈川県高座郡寒川町倉見45−3。



石鳥居の扁額「倉見神社」。



「倉見神社
御祭神 天照皇大神(あまてらすすめのおおかみ)
    熊野加武呂伎命(くまのかむろぎのみこと)   倉見大神と称する
御由緒 
御創建は不詳であるが、小田原北条氏分国の頃、山中彦八郎が倉見村を知行していた折り、
神明社・熊野社の両社を勧請し倉見の鎮守として奉斎したのが始りと伝えられる。
以後この両社に倉見地域内の数社を合祀し、明治二年「倉見大神」と称す。同六年十二月村社に
列せられ、昭和十八年「倉見神社」と改称し、同二十八年「宗教法人 倉見神社」となり
現在に至る。
往事に於ける社殿の規模などは詳らかではないが、神社所蔵の棟札によって安永三年(1774)
六月、氏子一同の寄進を以って神明社の本殿修復並に熊野社の拝殿造営のことが知られる。
現在の本殿は、明治二十七年寒川神社が本殿を造営するにあたり旧本殿を譲与され同二十八年
移築したものである。尚この本殿は 寛保元年(1741)に造営されたものであり、昭和五十三年
寒川町重要文化財に指定されている。
拝殿は、平成四年、寒川神社「平成御造営」にあたり譲与を受けたもので、当社の
「御大典奉祝記念事業」として建設委員会を組織し、 広く氏子崇敬者からの篤志を頂き、同六年
九月に移築されたものである。」



「夫婦欅」。



倉見神社本殿(くらみじんじゃほんでん)
寒川町指定重要文化財第四号
昭和五十三年十ニ月一日指定
寒川神社本殿として寛保元年(一七四一)に造営されたもので、明治ニ十八年(一八九五)の寒川神社
社殿造営に際し、村社倉見神社本殿として移築されました。十ニ支をはじめ花鳥及び獸等の
江戸時代の彫刻が配置されています。

夫婦欅(めおとけやき)
寒川町指定重要文化財第五号
昭和五十三年十ニ月一日指定
樹齢三百年と伝えられ、根元から約ニmのところでニ股に分かれているところから夫婦欅と
よばれています。
幹回りは大きい方が五・ニm以上あり、高さは約ニ十m。天然記念物として寒川町内にその比を
見ない巨木です。氏子が夫婦円満を願って育成したものと思われます。」



正面に「拝殿」。



狛犬(右)。



狛犬(左)。
左右両方とも歯が見えて、阿形像の如き姿であった。



手水舎。



社務所。



拝殿。
拝殿は平成4年(1992)の寒川神社の平成の御造営にあたり譲与されたもので、平成6年(1994)
9月に寒川神社から移築されたもの と。



扁額「倉見大神」。



「拝殿」の正面。



「本殿」。
寛保元年(1741)に造営された寒川神社本殿(町重要文化財指定)を、明治28年に移築
されたもの と。



「神輿殿」。



扁額「神輿殿」。



茅ヶ崎西浜海岸で開催される「暁の祭典 浜降祭」に参加する神輿の姿をネットから。
神輿製作年は昭和54年(1979年)と。



境内社の「浅間大神(木花之佐久夜比賣命)」が。



大きな石碑が正面に。



浅間大神を護る大正5年生まれの「狛犬」。
阿形像の下顎が欠けていた。
阿形像は子狛を連れていた。



吽形像は玉を持っていた。



その奥に「浅間大神」碑。
天正年間(1573年-1593年)、高木甚太郎が倉見村に陣屋を構えていたおり、浅間大神を
勧請したと伝えられている。
「浅間大神」は、明治16年(1883年)2月、社殿の損傷甚しく、石碑が建立された。
昭和60年(1985年)10月には、石碑に亀裂が生じたので、修復されたのだと。



「倉見神社」を後にして、次の「行安寺」に向かって進む。
新幹線の架道橋・第ニ倉見BVを通過。



架道橋とは道路を越える橋梁を指す。略称「BV」で、「Viaduct Bridge」が元になった。
「Viaduct」とは高架橋の意。「B」が先、「V」が後として記されている。



寒川町の汚水マンホール蓋。
町の花「スイセン」を描いたもの。
マンホールの円周を三分割したそれぞれの位置からスイセンが生え、中心に向かって伸びて
花を咲かせている。円の中心で3個の蕾の先端が触れるが如くに。
マンホールの下方には平仮名で「さむかわ」「おすい」と。



そして次に「行安寺」の入口に到着。
神奈川県高座郡寒川町倉見1873。



参道の左側には無数の墓石が並んでいた。



合掌する石仏。



「子育地蔵尊」であろうか。



寺号標石「浄土宗 寶積山 行安寺」。



無数の墓石、石仏を振り返る。



そして正面に山門。



「木造阿弥陀三尊像
寒川町指定重要文化財第16号
平成3年(1991)4月1日指定
中尊は、底部の銘により天正10年(1582)(*)の造立であることが明らかであり、
古式の偏袒右肩(へんたんうけん)、典雅な尊顔と尊体、正統的で穏やかな彫技など、
中央の桃山風の基準作として重要である。
両脇侍(りょうわきじ)は江戸時代の丁寧な後補作とみられる。
構造…各 寄木造・玉眼・漆箔(しっぱく)
付属品…各 光背・台座」
*: 後北条氏家臣の山中氏が倉見を知行していた時代。



「木造阿弥陀三尊像」をネットより。
像高:42.3センチメートル
中尊阿弥陀如来坐像は室町時代の作。
両脇侍の観音菩薩坐像、勢至菩薩坐像は江戸時代の作。


   
山門を潜るとさらに両脇には墓地が続き、墓石が並んでいた。



そして「本堂」。
寶積山了覺院と号す。
「行安寺」は、天正9年(1581年)に阿弥陀堂として創建、徳川家康の旗本高木甚太郎清方
(法名寶積院願譽浄林居士)が当地の領主なった際、北条家の家臣で倉見の領主だった
山中三河守の子形部少輔(行安院殿宗誉浄定大禅門、天正11年1583年没)の菩提を弔うため
一寺となしたという。慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領9石7斗の御朱印状を受領している。



大正七年四月建 と刻まれた六角形の石塔。
よく見ると6面のそれぞれに異なった地蔵菩薩像が浮彫されていた。
これは地蔵様は単独で立つものばかりではないことを表したもので、これを燈篭型六地蔵と
呼ばれていると。



「本堂」の扁額は山号の「寶積山」。



内陣。



墓地を見る。



境内から「山門」を振り返る。



「殉國」碑。
「英霊奉斎の銘
支那事変及太平洋戦争に一死以て国難に殉じ給いし英霊三十七柱を謹んでこの霊地に斎き奉る。」



「孝 陸軍砲兵 勲八等功七級 柳下賢治之墓」と。



「昭和十三年五月八日徐州附近ニ於テ名誉ノ戦士ヲ遂グ 享年 二十三才」と。
徐州会戦(じょしゅうかいせん)または徐州作戦で亡くなったのであろう。
日中戦争中の1938年(昭和13年)4月7日から6月7日まで、江蘇省・山東省・安徽省・河南省の
一帯で行われた日本陸軍と中国軍(国民革命軍)による戦い。
日本軍は南北から進攻し、5月19日に徐州を占領したが、国民党軍主力を包囲撃滅することは
できなかったのであった。



そして再び新幹線・第一倉見川Bを通過する。
橋りょう Bは河川や海を渡る橋である。「梁」は常用漢字ではないため、正式文書では
「りょう」とひらがなで書かれる。略称のBはBridgeの略。



そして「倉見才戸遺蹟」を訪ねた。
社宅の建物の敷地内に案内板があった。
神奈川県高座郡寒川町倉見2014。



「倉見才戸遺跡」案内板。



「倉見才戸遺蹟
平成3年、社宅の建替え工事にともない発掘調査がされ、平成5年に範囲確認調査、さらに
平成6年、平成11年にも住宅開発にともない発掘調査がおこなわれました。
調査の結果、一番古いものは今から5,000年ほど昔の縄文土器が発見されています。
弥生時代はこの遺跡の中心の時代で、中期から後期( 3~4世紀ごろ)の竪穴住居址が40軒以上も
発見されました。なかでも中期の3軒は普通の住居より大型な住居で、県内でもこれほど大きい
住居はめずらしいものです。環濠といった村のまわりをぐるっとめぐらせた溝も発見されました。
その他、有角石斧や、勾玉、管玉、鉄器といっためずらしいものも出土しました。東海地方や
東京湾岸方面に影響を受けた土器も出土し、当時の交易関係が伺えます。
古墳時代の竪穴住居址や平安時代の住居址や井戸址や掘建穴柱定物址、溝址なども発見されました。
さらに中~近世の溝址や土坑も発見されています。
このように、倉見才戸遺跡は過去から現在にいたるまで、絶え間なく生活が営まれてきた場所と
いうことができるでしよう。
なお、出土した土器等は文化財学習センター(ー之宮小学校内)で見ることができます。」



「大型住居(一次調査)」の上空からの発掘状況の写真。



「出土石器〈左から3点目が有角石斧〉(一次調査)」。



東に進み右に曲がるとフェンスの中にあった石碑群・「陣屋跡」碑。
ここは、江戸時代初期(天正19年(1591))に倉見村を治めた旗本高木清方の屋敷跡周辺と
伝えられている。
その後同家は江戸に移り住み、この地は畑となりました。
「未開の頃、開拓者達が原(はら)と才戸(さいど)の広い地域に「陣屋敷」という御倉屋敷を建て、
その立ち並ぶ倉を遠方からながめ「倉見」という地名がついたと言われている。
残る石像は、右より第六天、金比羅宮、堅牢地神(けんろうじしん)、道祖神、五輪塔の五つで
ある。」と。



中に入り込んで。
右から第六天、金毘羅宮、堅牢地神、道祖神、五輪塔。



近づいて。



「陣屋跡
この周辺に、江戸時代初期に倉見村を治めた旗本高木清方の屋敷(陣屋)があったと
伝えられています。
その規模は「新編相模風土記」によると、東西四十ニ間(76m)、南北ニ十四間(43m)と
されています。
現在は石造物が寄せられ、右から第六天、金毘羅宮、堅牢地神、道祖神、五輪塔が
並んでいます。」


大日製罐(株) 湘南工場の前を通過し、さらに今は使われていない住居前を通過。



そして次に訪ねたのが「倉見観音堂」。



観音寺は昭和28年(1953)~29年(1954)まで中倉見(倉見996番地)に存在した。
その後、その地に観音堂として残り、現在に至っている。
観音寺と観音堂は併存したのではなく、正式には観音寺だったと。
しかし、観音寺があった辺りに「観音堂」という小字や地名が残っているので、地元では
寺と堂を区別せずに使っていた可能性があるとのこと。



「南無大悲観世音菩薩」碑と右側は解読不能。



観音堂(行安寺末 倉見山観音寺)
観音堂は、かっては観音寺と称し、八王子街道と永池川の間、現在の水神宮付近に
建てられていた。江戸時代の末頃、旅人の火の不始耒から火事になったが、本尊は焼けぬよう
永池川に投げ込まれた。後に本尊は、岩田伝兵衛の網に入り、長崎喜兵衛が土地を提供して、
現在の地に安置したという。
またこの地は、徳島藩士の長崎玉淵が寺子屋を開き、明治初年まで手習師匠をしたところで、
これが明治六年徳彊(とくきょう)学舎に発展、明治九年倉見学校と改称された。
明治十年旭学校(現在の北部文化福祉会館の地)ができるまで、教育の場としてここて多くの
子弟が育った。」
銅造千手観音立像(本尊)
寒川町指定重要文化財第十八号
平成四年九月一日指定
本尊は、小像(像高ニ〇・八cm)にもかかわらず丁寧で、細面の尊顔、宝髻(ほうけい)、
頂上仏面等がよく表現されている。
また尊体には奥行があって均整よく、動きがあり近世作には認め難い味わいが感じられる。制作は
室町時代と考えられる。」



そして次に訪ねたのが「日吉神社」。



倉見日吉神社の創建年代等、詳細は不詳、個人所有の社とのこと。



その先に小祠があった。
神奈川県高座郡寒川町倉見2215−5。




そして進んでいくと新幹線の高架橋がありここを潜る。



JR相模線の「倉見駅」に到着。



「JR倉見駅
・1926年(大正15年)
 4月1日:寒川駅から相模鉄道線が延伸開業し、その終着駅として開業。
 7月15日:貨物取り扱いを開始。相模鉄道線が厚木駅まで延伸開業。
・1944年(昭和19年)6月1日:相模鉄道が国有化され、運輸通信省(後の日本国有鉄道)
 相模線の駅となる。
・1961年(昭和36年)2月1日:貨物取り扱いを廃止。
 相模川の砂利採取用の専用線が厚木方へ(現在途中まで遊歩道になっている)、トロリー線が
 茅ケ崎方へそれぞれ続いていた。トロリー線で運搬された砂利を貨車に積み込むホッパーも
 駅構内にあった。
・1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、JR東日本の駅となる。
・2001年(平成13年)11月18日:ICカード「Suica」供用開始。
・2016年(平成28年)2月12日:出札窓口の営業を終了。
・2月21日:多機能券売機設置。同時に茅ケ崎駅の遠隔管理による無人化を実施。
・2021年(令和3年)3月18日:エレベーターを設置。
相模線を跨ぐように走る東海道新幹線には将来、当駅付近に新駅を設置する構想がある。
また、相鉄いずみ野線(二俣川駅〜湘南台駅)が湘南台から当駅周辺まで延伸される構想もある」
とウィキペディアより。



「倉見駅
相模線は、大正10 (1921)年9月、茅ヶ崎一寒川間で開業したのを皮切りに、大正15 ( 1926 )年
4月に倉見まで、同年7月に厚木まで線路を延ばし、昭和6 (1931)年4月に橋本まで全線開通
しました。
このなかで、倉見駅は、大正15年に開業した当時の建物を今もそのまま使っていて、現存する
相模線の駅舎の中で最も古いものです。
駅舎だけでなく、ホーム、倉庫などすべてが鉄筋コンクリート造りでした。
関東大震災直後ということもあって、地震や火事に備えるために建てられたのですが、
補蓚費の軽減もねらい、当時としては大変画期的なことだったといわれています。」



昭和6 (1931)年4月に橋本まで全線開通した時の写真であろうか。



当時の「倉見駅」。



「倉見駅」入口。



有害図書追放ポスト「てんとうむしポスト」。
有害図書を回収するために町青少年環境浄化推進協議会が40年ほど前設置したもの。
名前の由来は、害虫のアブラムシを食べてしまうてんとう虫。
寒川駅とここ倉見駅の「てんとう虫ポスト」が、役目を終え2月中旬に撤去されたとのこと。



そして次に訪ねたのが「釣って見つけるぼうけんの国 湘南釣堀」。
神奈川県高座郡寒川町倉見935−1。



2020年7月リニューアルオープン。
釣りとトレジャーハントを一緒に楽しめる、全天候型屋内施設。



海水・淡水・カニ・ヤドカニなど、色々な魚釣りが楽しめる。
海水魚は近くの寿司屋で調理してもらえる(別料金)小さい子供はヤドカニやカニ釣り
が楽しめるのだと。



料金表。
原則はキャッチ&リリースであるようだ。



「寒川水族館」にも立ち寄った。
神奈川県内でも規模の大きい魚を含めたペットショップ。
熱帯植物等も販売していた。



様々な熱帯魚をしばし楽しむ。





熱帯・観葉植物。



この日の最後に訪ねたのが「倉見水神宮」。



正面から。
右側の石碑は草競馬の「名騎手 相模五郎」碑。



更に近づいて。



「倉見水神宮」。



「水神宮(すいじんぐう)
水神宮は水禍難を除くために川、泉などの水辺に祀られます。この水神宮は、相模砂利株式会社
が昭和4年4月に建立したものです。
この地はかつて、観音堂(現在は中倉見)が焼失した時の灰を集めた灰塚とよばれていた地です。
「相模五郎の碑」は明治の終り頃、倉見にいた本名須田亀助という名騎手を記念して建てられた
碑です。娯楽の少ない時代に馬力馬(農耕馬)による草競馬は楽しみで、「競馬の五郎親分」と
人気がありました。」



                             


                  ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2022.06.29 18:44:20
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